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運命の星(十四)

運命の星(十四)

礼子の朝は、今までよりも早く多忙になっていた。入院中の義父の看病に加え、病弱な義母のお世話が、礼子の日常となったのだ。武夫の入院以来、寝込んでしまった洋子の身の回りの世話をするために、車で十分という距離を、日に何度も往復していた。

今日も、朝六時には洋子の食事を作り、入院している武夫と二人の洗濯物をしていた。そして、七時には自宅に戻り、また食事をつくり、子供たちを学校へ送り出した。

礼子は一人コーヒーを飲みながら、ソファーに座って、つかの間の休息をとっていた。彼女にとって、今までの平凡な日常からの急激な変化は、受け入れざる負えないことであり、そのことに不満はなかった。ただ、この時を一にして会社での食中毒事件や両親の病気、さらには、夫、正美の問題と幾重にも身の回りに起きていることを、どう理解したらいいのか分からなかった。決して我が身の不幸を嘆いてるのではなく、それを『人生の常』として消化できない、何かを感じていた。正美との出会いを運命として考えても、それだけでは納得いかない何かを、深く強く思い巡らせていた。

そんな礼子の胸中を思わせるように、空は薄暗くどんよりと曇り静かな朝だった。そこに、何の前触れもなく電話がかかってきた。少し驚きながら、急いで電話に出てみると、ハピネスの荒木支配人からだった。

「おはようございます!荒木です」

「あらっ支配人、おはようございます!いつも主人が、大変お世話になっています。」

「いいえ、こちらこそ、お世話になっています! あのぅ、朝早く申し訳ありませんが、専務は居りますか?」

ちょうどそこへ、パジャマ姿の正美がムスッとした顔で入ってきた。

「はい、お待ちください。今代わりますね!」

礼子は小声で、「支配人からです!」と言って受話器を手渡した。正美は、そのコードレスの受話器を持ち、ソファーに座ってから、

「おはよう!支配人か? どうしたっ」

そう言いながらリビングの時計を見ると、八時少し前だった。

「営業部の清水課長なんですが・・」

清水は、荒木とは公私共に親しく、師匠と慕ってもいた。その彼は、荒木が支配人になる人事のときに、主任から課長への辞令を受けていた。

「んっ、清水がどうした?」

「今朝、清水の奥さんから、私に電話がありまして、ここ三日間、家に帰っていないようなんです・・・」

荒木の話し方は弱々しく、心配と不安を隠さなかった。

「帰っていないって、どういうことなんだ? 電話は?・・携帯は繋がんないのか?」

「えっ、全く連絡が付かないというのです!」

「ん~っ・・とりあえず、分かった! あとは会社で話そう!」

 

それから三日が経ったが、清水は依然、行方不明のままだった。週末に清水が担当する予定だった結婚式は急遽、荒木が代わることになった。

もう一週間になる。ここに至って、正美と話し合った荒木は、奥さんを連れて警察に行き事情を説明し、正式に捜索の依頼をした。

 

清水は今年で二十九歳。四年前に荒木の担当で結婚式を行った、ハピネスのお客さんであった。彼は、それまで職を転々とし、結婚が決まったときには、CMで有名な寝具の訪問販売の営業をしていた。歩合制でノルマのキツイその営業は、まるで押し売りであった。そんな強引な手法と営業成績イコール金だけのために毎日毎日、お客を騙すように売り歩くことが嫌になっていた。そんな中でも結婚が決まり、式場探しをしていた時に、当時、ハピネスの荒木部長と出会ったのである。

清水は、結婚式の打ち合わせをするうちに、荒木の人柄に魅せられ、いつしか心打ち明けられるまでの関係になっていた。一方の荒木も、お客さんというだけではなく、一人の青年として気になる存在となっていった。

その後、披露宴が無事終了するタイミングで、『一緒にハピネスで営業の仕事をしてみないか?』と誘ったのである。

家族は、妻・麻子と二歳半になる男の子に、一歳になったばかりの女の子。四人は、ハピネスの近くにある、清水の父親が所有するアパートに住んでいた。いったい、この幼い子供を残してどこに行ったのか?何があったのか?荒木は、毎晩のように家族のアパートを訪ね、妻の麻子に話を聞いていた。

 

行方が分からなくなって九日目の十月十日・体育の日。この日は祝日ではあったが、仏滅のため婚礼はなく、荒木支配人以下、営業部員は後書類つくりのため、事務所に詰めていた。

「支配人、ちょっとよろしいですか?」

声をかけてきたのは、経理事務の前田浩子だった。前田は、ハピネスの担当会計事務所の紹介で、これまで金庫番だった鈴木典子に代わって入社していた。

「どうしました?」

荒木は、何か見られたくないのか、ノートパソコンを慌てて閉じてから、前田を見た。

「清水課長が九月十一日と十八日に担当した、お客さんの集金が、まだなんですけれど、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「九月十一日って、一ヶ月前ですよね・・・」

「そうなんですが、まだなんです。私も何度か確認はしていたのですが、お客さんの都合で延びているということでした・・」

前田が持っていた資料を、奪い取るように見てみると、二件分の請求が、赤字で“未納”となっていた。その金額は九〇〇万円以上になる。荒木は、直感で嫌な予感がした。まさか!と思いながら、それが原因か?と分かってしまったような気になった。

「分かりました。今日中に確認します!」

思わず荒木は頭を抱えた。そして、顔を上げると、その話を聞いていた赤坂・井上・佐藤の営業部員三人が、何かを察したような目で見ていた。

その夜、荒木はお客さんのお宅に伺って、丁寧に、慎重に確認をした。そして、嫌な予感が的中してしまったのである。ただ、唯一救いだったのは、いずれのお客さんも、極めて評判というか、清水の評価が高かったことだった。

事実を確認した荒木は、専務に連絡をしようとしたが、それでも信じたくない思いから、報告の前に、もう一度確認したいと、清水のアパートへ向かった。

改めて、一歩踏み込んで話を聞かなければならない。この場に及んでプライベートだとか、なんだとかは言っていられない。本人の確認は取れていないが、事実をそのまま伝えなければならない。荒木は、これまでよりも語気強めに聞いた。その声の大きさに、たった今寝かしつけた子供を気にしながら、麻子は重たそうに口を開いた。

 

『清水の実家は、仙台市内で不動産業を営んでいる。その平和不動産は父親の文男が社長を務め、従業員は、二つ上の兄で長男・雄介の他に営業と事務員の計三名。業務の中心は土地や賃貸マンション・アパートの仲介であった。

東京の大学にいっていた雄介は、宅建の国家資格を取得し、都内の中堅不動産会社に就職していたが、今からちょうど三年前、文男に呼び戻されていた。その雄介が帰って直ぐに、文男の猛反対を押し切る形で、分譲マンションを手がけたのだった。

この計画のために、コツコツと買い広げてきた数件のアパートや小さな商業ビルの殆どを、銀行借入の担保として差し出す結果となった。それでも、計画から一年半で、分譲販売にこぎ着けた。しかし、その時も時、アメリカ発サブプライムローン問題で、まさに世界金融危機と見事に重なってしまったのである。これにより、不動産業界は一気に冬の時代へと入り、マンション市場も低迷することになった。結果、当初の設定価格では買い手が付かず、十%から十五%の値下げを余儀なくされた上に、完成から半年経っても完売できなかった。

実は、このことに強い責任を感じていた雄介は、自殺未遂を起こしていたのである。実際、その事があるまで何も知らなかった康介は、青天の霹靂とばかりに驚いた。文男から詳しい事情を聞いた康介は、当座の運転資金として五百万を、高利を承知で町金から借りて都合した。

その後、何とかマンションを完売することはできたが、予定の販売価格を大きく下回り、銀行に差し入れていた担保物権の殆どを処分して、この難局を逃れていた。

それはそれで良かったのだけれども、繋ぎ資金として康介が都合した五百万だけが残ってしまった。消費者金融の金利は年二十九.二八%。金額にすると百四十六万四千円になる。つまり月十万円以上の金利を払わなければならなかった。

そのことを康介は、ふさぎ込んでしまっていた兄にも、痛々しいばかりの父親にも言い出せなかった。それからは一転、康介の家庭経済の自転車操業が始まってしまったのだ。一サラリーマンの康介にとって、月十万以上の金利は厳しかった。その上、麻子は第二子の臨月に入っていた。まったく、消費者金融の思う壺。元金は減らずに金利を貪りつくす。その金利だけでも払えればよいのだが、現実には無理だった。それでも康介は、麻子には心配かけまいと黙っていた。

ある日、麻子が家で出産の準備をしていた。しばらく留守にすることを気にかけて、家のあれこれを、大学ノートに箇条書きにまとめていると、そこへ、郵便配達員の玄関ドアポストを開く音がした。電気・水道など様々な請求がされる月末、整理するにもちょうど良いと思い、書類を確認してみると、「親展」の赤い判の押された封筒が目に止まった。『白鷺商事?』

家庭のことには、ほぼ無関心な康介を良く知っていた麻子は、何のためらいもなく、自分宛に来たものとして開封した。それこそ、康介が五百万を借りた町金からの催促だった。

それをきっかけに、麻子もこれまでの経緯と現実を知った。その日、結婚して始めて本気の夫婦喧嘩に発展してしまった。麻子は何度も、お父さんにそのことを話すように言ったが、康介は聞かなかった。堪りかねた麻子は、実家の両親にそっと打ち明け、なんとか百万円を借りて康介に渡した。それを良しとしなかった康介は、頭を下げて返金した。それ以来、夫婦の会話は途切れ、出産の日も病院に康介の姿はなかった。

さらに、出産後、家に帰った麻子は数通の催促状を見つけ、几帳面な麻子は、その催促というよりは督促状のような内容を、正確に書きとめていた。そして、今現在、分かっているだけで、九業者で千八百万を越えていた。それでも、これを話せば、また喧嘩になるだけと思い、何がどうなっているのかという不安を秘めながら、誰に相談することもできずにいた。』

 

「明日で十日になります。しばらく、子供たちと実家に帰ろうと思ってるんです。」

ようやく全てを話せたという安堵感と、心配で眠れない夜を過ごしてきた疲れで、その声は聞くからに、穏やかであるようでいて弱々しかった。

荒木は、憔悴しきった麻子に掛ける言葉を必死に探していた。同情と労い、反対に、避け難い現実と許されない事実の両方を思い、言葉がなかった。が、思わず出た一言は、

「悪かったっ・・申し訳なかったっ・・」

二人を思い二人に対して、素直な思いだった。荒木は上司として部下のことを何も知らなかった。知ろうともしなかった。たった一人の部下の心情も分からずにいた自分が恥ずかしかった。そして、本当に申し訳ないと感じた。

「とんでもありません。家の人は、会社の話しになると支配人のことばっかりでした。本当に信頼しているんだなと、私にも分かりました。それなのに・・ご迷惑をかけてしまって、本当に申し訳ありません。」

そう言って、襖越しに寝ている二人の子供を思い見ていた。

荒木が、ひっそりと寂しげで静かなアパートを出たのは、夜十時過ぎだった。

 

翌朝、正美と荒木に加え、経理の前田は出勤と同時に応接室に集まっていた。外は今にも降り出しそうな空模様。電気も点けずに薄暗い中、前田は荒木とアイコンタクトをしてから事情を説明した。

「昨日、お客様の確認が取れましたので、ご報告いたします。清水課長の担当二件分、九百六十三万円の売上が不明になっています。」

支配人から話があるとは言われたが、そこに前田が同席する意味を理解していなかった正美は、一瞬耳を疑った。

「どういう事だね?・・未収ではないのかねっ?」

正美が前田に尋ねると、前田は荒木に視線を送り返していた。

荒木はすかさず、

「申し訳ありません! 」

そう言ったきり、話し出せないでいた。正美はタバコを吸いながら、支配人の説明を待った。応接テーブルに灰皿がない事に気が付いた前田は、急いで灰皿とお茶オ入れて持ってきた。それを見て正美は一本目のタバコを消し、もう一本に火を点けた。そして、その二本目も消しながら、

「支配人、どういうことなのか説明してくれないか?」

正美はお茶を飲んで、姿勢を整えるようにソファーに深く座りなおした。それから少し時間を置いて、荒木が一つ小さく咳払いをしてから話し始めた。

 

僅か五分程の説明の最中に、正美は5本目のタバコを吸い始めていた。そのイライラ感は尋常ではなかった。

「清水は、誰にも打ち明けられずに、追い詰められてしまったのかもしれません。それが理由で事実ならば、彼も苦しんだと思います。たった一人で、可愛そうに・・私の責任でもあります!」

荒木は、事実は事実として受け止めた上で、清水という人間を思いやった。すると、大きくタバコを吸い込み、お茶を飲み干して、そのお茶碗が割れんばかりにテーブルに置いて、

「分かったっ! 結局は、会社の金を使い込んだって事か! 責任? 支配人っ、責任があるというなら、この九百万はどうするんだね? 今、会社は大変なんだよ、君も分かっているだろう。」

正美は、前田が持ってきた資料を、荒木に突きつけるようにして言った。それを荒木の隣で聞いていた前田が、荒木の気持ちを察して、

「あのう、専務 」

「君も君だ、何でもっと早く報告してくれなかったんだ。責任といえば、君にも責任があるんじゃないのかね!全く。」

今度は、テーブルに資料を叩きつけていた。正美は吸わないタバコをテーブルの上で転がしながら窓の外を見て、

「これは事件だ!横領だ! かといって、こんな事が世間に知れたら、それこそ恥ずかしい限りだよ・・・会社の信用問題だっ・・・」

本音だった。少なくともこの時点では。同時に、これまでに起きた幾つかの不正問題を思い出してもいた。そして、信用することと信頼することへの危うさを、自分に言い聞かせていた。「無くならない!不正は一体どうすれば無くなるのか?それにしても、今回は額が大きい・・・・・それでも、起きてしまった以上、何とかしなければならない。それを今更何を言ってもっ!」

胸の内は複雑だった。すると、その胸の奥にギリギリ残っていた正美の慈愛が、僅かに滲み出すように、

「ところで、清水は・・変なことにならなければ良いが・・家族はこれからどうするんだ?」

金、責任、経営、そして、ようやく家族か?ほとほと、『この人は会社が一番なんだ』『悪い人ではないとしても、スタッフは会社のためとしか考えていないのか?』とガッカリした荒木は、

「何ができるか分かりませんが、家族は私がフォローします!元は、このハピネスの、そして私のお客さんでもありますしっ。」

まだ数ヶ月ではあるが、ハピネスの様々な経理上の実態を知っていた前田はシラケていた。彼女は仕事を通じて、経営者の本質が帳簿上に現れることを知っていた。財物への執着は、どこも概ね変わらないが、その執着心が、それ以外を盲目にしてしまう。これも、学んで分かったことではなく、現実の中で知り得たものだった。

「ところで、警察に行って来たんだよな?その後、何か連絡はあったのか?」

「いいえ、まだ何もありません」

そこへ、内線が掛かって来た。それは、たった今話していた警察からだった。責任者という事で、支配人が電話に出た。

地元警察によると、仙台駅近くのコインパーキングに、何日もの間、駐車されている車があると言う連絡を受け、確認したところ、ハピネス所有の車であることが分かったというのだ。確かに、営業車と共に清水の消息が分からなくなっていた。それが発見されたのだ。

早速、車の引き取りに荒木が出かけることで、この重たい雰囲気の時間に、ピリオドが打たれることになった。

 

もうじきお昼の時間だったが、食欲のない正美は、一人パソコンの液晶画面の中にいた。心は資金繰りから離れない。何度も推考してきた資金計画も一千万近い不明金が発生してしまっては、修正をせざる負えなかった。

そこに、武夫の看病のために通いつめていた礼子から携帯に電話が入った。

「取り込み中じゃなかった?忙しいところごめんなさい。」

「いや、こっちは大丈夫だ!それこそ、大変な思いをさせて申し・・」

「そんなことは良いのっ、お父さんが、あなたに今日中に病院に来るようにって! 今、ここで直ぐに電話しなさいって・・大丈夫?時間取れる?」

「わかった。これから直ぐに行くって伝えてくれ!」

正美は、再度確認し修正した資金繰り表をプリントアウトし、封筒に入れ、鞄に詰め込んで出かけていった。

 

武夫の病室は個室であった。とはいえ、経済的に余裕があってそうしている訳ではなかった。時間が限られている患者の場合、病院の方から何気なく進められることがあるのだ。

「社長っ、大丈夫ですか?」

「おい、こんな時に社長はないだろう!親父で良いよ、親父でっ!実際、その社長を、お前にやってもらわないとなっ。」

「何言ってんですか!まだまだ、これ・・」

「いや、俺はもう長くない!分かっている。今日も看護士さんに我侭を言って、モルヒネを山ほど打ってもらったお陰で、今は痛くないよ! まぁっ、そのモルヒネも、だんだん効かなくなって来てるけどな!」

正美にとっては偉大な社長で、大きな大きな存在の父であった。だが、今、目の前にいるその人は、白いシーツの上に横たわり、見る度に小さくなっている一人の老人だった。

「まあ、座りなさい。正美、お前幾つになった?」

「今年、四十三になりました」

「四十三か? 四十三・・・その四十三の歳に、今のハピネスを立ち上げたんだなぁ。」

正美が背にしている病室の窓を見つめながら、遠い過去を思い起こしているように言った。

「・・・俺は、俺はお前に何も残してやれなかった。苦労かけてスマン!」

その意外な一言に、姿勢良く聞いていた正美は、ベッドに手を付きながら、

「何を言ってるんですか?社長はっ・・」

「親父でいい。まぁ聞いてくれ!俺の遺言としてなっ!」

武夫は、枕の下に置いてあったノートを取り出し、それを開いて続けた。

「俺は母さんと二人で、必死に生きてきた。生活のために、お前達のためにな。武志にも無理を言って手伝ってもらった。あいつはなっ、俺の我侭を聞いて、自分がやりたかった仕事を諦めたんだよ・・。本当に一生懸命やってくれた。今思えば、それも悪かったなと思っているんだ。」

正美は思った。こうした親子の会話が今まで、どれ程あったか? だから、聞こう。親父の最後になるかもしれない言葉を。そして、親子の、否、男同士の話をしようと。正美は、武夫の目を見つめて、小さく頷いた。

「お前が生まれる一年前に、生肉屋の克己叔父さんの薦めで、焼肉の大将を二十三歳で始めた。もう四十四年前になるか? それからは速かった。時代も高度経済成長かなんだか知らないけど、激動に次ぐ激動で、正直、何がなんだか分からないくらい速かった。でも・・・俺は運が良かった。時代に恵まれていたのかもしれない。それはそれで、だったら良い時に残せるだけ残そうと思って、儲かったものは財産にして、会社とお前たち子供に残そうと頑張ったんだ。それは悪いことではないと思ってきたし、今でもそう思っている。しかし、今になってしまえば、その全てを失ってしまった・・・」

「そんなこと・・元々無かったんですよねっ!」

「そうだ、何も無かった。確かに、何も無かったけれど、今は反対に厄介な会社と借金を、お前に残してしまった!それが・・・」

詰まる思いをかわすように、またノートを捲りながら、

「俺は、生きるために商売を始めた。生き延びるために商売を続けてきた。自分は親父を早くに亡くしていたから、お前たちだけは苦労させたくないという一心でやってきたんだ。なんてっ、勝手なことを言ってるが、仕事・仕事で、お前たちには寂しい思いをさせたかも知れないけどな。だけど・・」

これを遺言として聞かされては、正美の心境は穏やかではいられない。武夫の目をジッと見つめて聞いていた、その目は真っ赤だった。

「でも正美っ、現実は厳しいな!」

「はいっ・・大丈夫です。頑張ります。」

「いやっ、頑張らなくて良いんだ! そもそも俺がはじめた事だ! お前じゃない。だから、もうこれ以上、無理しなくてもいいじゃないか?」

「どういうことですか?」

「これも自分勝手な我侭かもしれないが、俺が始めた商売だから、俺の時代で終わりにしてもいいって事だよ。先月も銀行その他、会計士と相談したんだが、今清算すれば、幸い家だけは残るようだ。そうすれば、お前たち、」

「ちょっと待ってください!それはあまりにも、勝手過ぎます。お言葉ですが、その通り我侭だと思います。」

真っ赤に腫らした目に力を込めて言った。

「私は、今の会社を恨んだり嘆いたり、まして不満を持ってもいません。社長の、親父の生きた証を俺が・・・」

こみ上げる思いで続かなくなってしまった。

「ありがとう。本当にありがとう! でも、残念ながら、俺にはもう時間がない。お前には何もしてやれない。なぁっ正美。これからの時代は大変だ。本当に難しい。俺は何の勉強もしないで、ただガムシャラにやってきただけ。それでよかった時代だった。恥ずかしながら、経営の事もよく分かっていない。それでも、何とかやってこれた。思えば奇跡のような話だ。運が良かっただけなんだ。」

「そんなことありません!尊っ尊敬しています。社長としても、経営者としても。社長の存在自体が私の、」

「ありがとう!そこが正美の優しいところだなっ。」

武夫は正美に正対するように座りなおした。

「俺はここのところ、ずっと考えてきた・・・自分にとって会社は生きるためのものだった。生活と人生の全てだったといっても良い。そして、俺一人で全部やってきたと思っていた。でも、それは違ってた。全くの思い上がりだった。母さんがいてくれたお陰。武志・典子のお陰。取引先にも良くしてもらった。何より、今まで多くのスタッフが居てくれたお陰だって、今更遅いけど本心で気が付いたよ! こんな単純なことも分からなかったなんてなぁ、本当に恥ずかしいよ。」

ここでまた、ノートを数ページ捲り、

「口じゃ俺も、もっとらしいことを言ってきた。経営を通じて社会貢献だ、お客様第一だ、取引先も大事、社員あっての会社だ、だから社員を大事にしなければと。それも嘘じゃなかった。そう考えていたのも事実だった。でもな、それは全て俺のためだった。食うが為の方便だった。」

今度は、真新しいノートを閉じ、

「俺は経営の根本を知らないで、今までやってきてしまった。だから、会社という形だけ、中身のない実態だけを、お前に残してしまったようだ。経営者としては失格だ。本来ならば、その経営の中身こそ確かなものにして残し、後継のお前に引き継がなければならなかった。そういう意味で、俺はお前に何も残して、」

「社長っ、おっ親父、それを俺が・・・、俺がこれから・・・」

何も無かった。何をどうすれば良いかは知らないが、武夫の強烈な自省の一言一言を、そのまま受け入れたくなかった。仮にそうであっても、なんら悪いことをしてきたわけではないし、恥じることもない。正美の心中には、ますます、『だったら俺がっ』という気概が芽生えてきた。

武夫は、枕もとに置いていたお見舞いの袋と一通の手紙を手に取り、

「午前中、安西君がお見舞いに来てくれたよ!」

そう言って、正美にそれを手渡した。お見舞いだけでなく、手紙も一緒なのは分かったが、それを見ようとせずに、じっと武夫を見ていた。武夫は、その正美の手元にある手紙を見つめながら、

「正美、お前はまだ若い。もし、お前がこれから先も、ハピネスの経営を継続させたいと思うならば、アドバイス・指導してくれる人が必要だ! 残念ながら俺には居なかった。だからその必要性が実感としてわかるんだ。

安西君に聞いたよ!調理場と業者の癒着というか・・うすうす俺は分かっていた。でもそれは、良い悪いよりも、その世界の現実だろうと見過ごしてきた。今までは業績も良かったし、利益も出ていたから、その位はと・・それも俺の責任だ。あの食中毒の問題にしても、今振り返れば、全て結果主義、売上第一で、全てを曖昧にしてきたツケで、自分の事だけ会社のことだけを考えた結果だと思っている。」

ここでようやく正美は、手に持っていた手紙を開いた。その様子を見ながら、

「安西君の確信は本物だ!そう感じた! 彼が掴んだ確信の一つひとつは、俺には無かった。彼は今、経営で一番大事なものを学んでいるようだ。難しいことは俺には分からないと、避けて通ってきた自分が言うのもなんだがなっ。」

その手紙は、正美がセミナーに案内された時に、同封されていたものと同じ内容だった。この時、正美の頭の中では、安西、大隈、村岡、満、そして、有島の一言一言がフラッシュバックしていた。

そして、『誰か教えてくれる人が居ればいいんだけどねぇっ・・それでも気がつかないと、身の回りに“これでもかっ”て言う、結果や現象が起きてきますから!』手紙を持つ手が震えていた。

さらに、『社長・お父さんの問題では決してありません。トップリーダーとは肩書きのことではないんです。専務のあなたです!気が付いた一人がリーダーであり、その一人こそ変革の主体者となるのです!そういう意味で、専務しかいません!他の誰でもないんです』正美の手から手紙とお見舞いの袋が滑り落ちていた。それを見ていた武夫の顔がゆがんだ。それは正美を思いやってではなく、モルヒネが切れてきた痛みからだった。それを必死に我慢して、優しく諭すように、

「俺は学歴もないし、経営者としても半人前かもしれない。それでも、長年商売をやってくる中で自然に身に付いたものがある。それは、人は良い時には擦り寄ってくる。反対に、悪くなると皆避けて通る。信じた人間に裏切られることも、信頼していたのに騙されたこともあった。その心の傷だけが身に付けた無形の財産のようなものだ。

その上で言うのだが、安西は信じて良い! ハピネスが一番大変な時に、本気で心配してくれている。二十年以上前のことを恩義に感じ忘れない人間だ。俺は、アンビシャスというところが、どんな会社なのかは知らない。知らなくても分かる。あの安西を見ていればなっ!」

武夫の痛みは耐えられる限界にきていた。そして、この最初で最後になるかもしれない親子の対話、男同士の絆の会話を結ぶように武夫が、

「正美。・・資金繰りの目処はつけて置いた。明日にでも銀行が行くはずだ。来年の一・二月と夏場の資金までは何とかなるはずだ。」

武夫は正美を強く見つめながら、

「安西君を信じて付いて行け! 悲しいけれど、俺がお前にできる唯一のアドバイスかもしれない。後は頼んだ。お前らしくやれば良い。母さんをよろしくな。礼子や子供たちを泣かしちゃいけないぞ!  ありがとう 」

そう言う武夫の顔が涙で見えない。でも、その確かな存在と共に、自分の中に偉大な父親の姿として焼き付けておきたかった。何度も何度も涙をぬぐった。それでも潤んでよく見えない。ワイシャツの両腕が涙で濡れていた。

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