運命の星(十五)

「ところで安西、このままで良いのか?」
「良くないよ! この間、お見舞いに行ってきたよ。竹岡社長の・・」
「それで? どうなんだ、具合は?」
「良くないなぁ、あれは! 普通の病気じゃないなっ、きっと 」
「そうか・・・」
二人で飲むのは久しぶりだった。その二人は、安西行き付けの、いつものバーに居た。カウンターに並んで座っている後ろ姿は、どこと無く元気がないように見えた。
「聞けば、ホテル和休を訪ねて行った、その日だろう?社長が入院したの・・もう二週間前か?」
「そうだなっ、実はなっ、ここだけにして欲しいんだけど、ハピネスの営業課長の清水さんが、失踪して今いないんだってよ! 現場の情報だと、お客から集金した金を持ったままだってことだ・・それも少ない額じゃないようなんだ。その事もあって、ハピネスの内部は今、疑心暗鬼で雰囲気も良くない。営業部は特に・・・このままだと、もっと色々な問題が起きてもおかしくない。それが心配でさぁ」
「続くなっ、次々と・・・有島さんが言うように、これでもかって位になぁ」
「本当だな、気の毒としか言いようがない・・・気がついて欲しいよな」
「安西、どうすんだよ! 気がついて欲しいじゃなくて、どうしたら気が付いてくれるか、一緒に考えようぜ!お前、お見舞いに行って、社長からもお願いされたんだろう?」
今日は珍しく、二人ともブラデーをロックで飲んでいた。一口飲む毎にグラスの中の氷が風鈴のような音を鳴らしていた。確かに、心に憂いを持った二人は寂しげであった。さて、「一緒に考えよう」とは言ったものの、何も思い浮かばない。そんな無言の二人だったが、通じ合った心で会話をしていた。そして、この時間を、なんとも言えない、何もない時を悦んでいた。
「いらっしゃいませ! お一人ですか?」
哀愁を感じさせる声を響かせ、初老のマスターが一人の新規客をカウンターに案内しようと、
「お隣っ、よろしいですか?」
安西は、グラスを片手にうつむきながら、「どうぞ」と言って、何気なくそのマスターが案内するお客を見て、持っていたグラスを落としそうになった。
「せっ、専務!」
それを聞いた大隈も、驚きのあまり聞こえないほど小さく、
「こっ、こんばんは! 今日は・・・?」
「同じものを!」
正美は、マスターに注文を済ませてから、安西の隣に座った。
「きっと、ここだと聞いて来ました!」
安西と大隈は顔を見合わせていた。改めて正美を見ると、
「先日は、わざわざお見舞いに来ていただいたそうで・・ありがとうございました。」
そう言われても、突然現れた噂の専務を目の前に、驚きと戸惑いを隠せないで居る安西は、
「いえっ、それは・・・ところで今日は?」
そこへ、正美のブランデーがそっと置かれた。
「仲間に入れていただけるでしょうか?」
と、右手に持ったグラスを、二人の前に差し出した。それは勿論といった表情で「どうぞ、どうぞ、」と言いながら、三人はグラスを合わせていた。すると、姿勢を真っ直ぐ二人に向けて、
「是非、お二人の仲間に加えてください!・・よろしくお願いします!」
正美は、席を立って頭を下げていた。驚いた安西は、
「こんなところで、専務っ」
専務の肩に優しく手をかけ、椅子に座るように促した。
「仲間って・・専務、決意してくれたんですか?一緒にってことですか?お互い頑張ろうってことですか?大隈とも、村岡社長とも、アンビシャス仲間ってことですか?」
あまりに突然の申し出に興奮した安西は、大隈を見ていた。そして、お前もなんか言えよ!といった表情で、もう一度、大隈の顔を見た。
「よかった!本当に良かった。こちらこそ仲間になれて嬉しいですよ!」
「そうだなっ、そうだよなっ、嬉しいよなっ、もうこれで大丈夫だよなっ?大隈っ!なんとか言えよ!」
完全に安西は舞い上がっていた。それまで下を向いて沈んでいた二人は急変し、BGMにジャズが流れる静かなバーが、ここだけ賑やかな居酒屋のようになってしまった。
ついさっきまで、チビチビ大人ぶって飲んでいたブランデーを、ワインに替えて、グビグビと喉を鳴らすように飲みだしていた。そんな安西と正美の談笑を見ながら、
「安西っ、今日はお祝いだ! 俺の奢りで、もう一件行かないか?直ぐ近くだ!どうですか専務っ、行きましょう!」
と大隈が言い出した。二人も、それには何の躊躇いもなく「それでは・・」と店を出た三人は、チャンポンした酔いも手伝ってか、肩をぶつけ合いながら、夜の国分町を歩いていた。この日の仙台の夜は冷えた。だが、そのヒンヤリとした空気が、酔いと興奮状態の三人には気持ちよく爽快だった。
大隈が誘ったお店に着いた三人は、個室に居た。そこは小料理屋であった。大隈は気を利かせ、静かに、ゆっくり話ができるところを探したのだ。BGMはジャズからお琴に変わり、その、あまりの雰囲気の変わりように、会話が途絶えていた。そこへ、大隈が事前に予約していた、地酒と共に石巻で水揚げされた、新鮮なお造りが運ばれてきた。三人は箸を進める中で、自然に会話が戻ってきた。
「先日、竹岡社長に会ってきましたが、その後どうですか?」
安西の心配は、正美以上だった。純粋に竹岡社長だけを思っていた。それに比べ、正美の心境には会社があり、資金繰りがあり、そして社長の病気だった。病院での父子の麗しい対話を以ってしても、純粋に父だけを思えない。否、現実の問題が依然として内面に同居しているのだ。
「本当にありがとうございます。社長も喜んでいました。」
一人、あまり箸が進んでいないようだった。
「社長が言っていました。安西君の確信は本物だって!そして・・・安西君を信じて付いて行きなさい・・と」
そのメッセージを思い出し、本心から大事にしたいという思で、その瞳は潤み輝いていた。そして、正美は言いずらそうに聞いた。
「安西社長、勉強はしたいのですが、そのカウン・・セリングの金額は?」
「心配しないでください!大丈夫です。」
「えっ、大丈夫って、どういうことですか?」
刺身を一口放り込んでから箸を置いて、安西は笑顔で言った。
「社長が用意してくれています。・・実はお見舞いに行った翌日、社長に呼ばれましてねっ、専務を何とか頼むと言われ、一年分の料金を僕が預かってるんです。まったく、社長らしいですよ! 私も嬉しかったです・・」
誰よりも状況を知っているだけに、どこでどう都合したのか?それ以上に、その思いに衝撃と感動した正美は、額をテーブルに付け、肩を大きく震わせていた。その様子をしばらく見つめていた大隈が、
「実はね、僕のところにも社長から電話がありました。ずいぶん前に、一度お会いしたことはありましたが、ゆっくり話した事はありません。そんな私にも、安西君から聞いたと言って、うちの専務も是非、仲間にしてやってくださいって・・私も感動しました。素晴らしいお父さんですね。」
「専務っ、これからです。これからが本当の勝負ですよ!専務しか居ないんです!専務ならできます。色々な事がありましたが、もう一人で悩まないでいいんです!私たちも同じです。同じだったんです。孤独でした。トップリーダーですから。後ろには誰も居ない。・・・でも、これからは、」
「ありがとうございます!ありがとうございます!ありがと・・・」
声にならなかった。でも、不思議と正美の心は何かから解き放たれたように軽くなっていた。単なる気休めでもない、安心、安堵とも違う。この時、同級生の安西と大隈に加え、比較的、年齢の近い正美の三人は、見えない友情のトライアングルで結ばれたのであった。
月が替わって十一月一日、正美は新幹線の中に居た。今日午後一時、アンビシャス本社でカウンセリング契約をする為であった。その新幹線は十一時五十九分・大宮駅に着いていた。道案内を兼ねて安西が同行してくれるという予定であったが、お互い日程がどうしても合わず、この日は正美一人で出かけていた。実際のところ、アンビシャスに連絡をして、仙台まで来て頂く事もできたのだが、あえて本社へ出向くことを選んでいた。それは、一度自分の方から断った形になっていたことを、正美は気にしていた。また、それとは別に、どうしても、まだ見えないアンビシャスの実態を、自分の目で確認したかったのだ。
十二時二十四分、東京駅に着いた。そこから中央線に乗り換え、四ッ谷駅で下車し、階段とエスカレーターを使い地上へ出ると、右手には上智大学が見えた。そこで、簡単に調べておいた地図を見ながら、新宿通りを半蔵門方面へ歩いた。ここは東京のど真ん中、緑の多い仙台とは違い、冷たいコンクリートのビルが整然と立ち並んでいた。
正美は、ここまで来てもまだ、『契約して何が変わるのか?本当に結果が良くなるのか?売上が、資金繰りが、本当に改善されるのか?』と、それは契約の不安ではなく、その先、つまり結果だけが契約の全てだった。でも、もう引き返せないことは自覚していた。だから、真っ直ぐに目的地を目指し早足になっていた。駅を出てもう十分になる。何度か、地図を確認して歩いてきたつもりだったが、それらしいビルが見あたらなかった。心配になった正美は、携帯でアンビシャス本社に電話を入れてみた。すると、アンビシャスが入っているビルの下から電話していることが分かった。急ぎ、スタッフが迎えに降りてきてくれた。
近代的で尚且つ煌びやかなビルが多い中で、ここは昭和の匂いを感じさせる古い造りだった。正美は少し以外に思った。と同時に、ちょっと安心した。エレベーターは五階で止まり、ドアが開くと、有島が出迎えてくれた。
「竹岡専務、お待ちしておりました。遠くから、本当にご苦労様です!どうぞ!」
といって、応接室に案内されると、間を置かず女性スタッフが、明るい笑顔を見せながら、コーヒーとおしぼりを持って入ってきた。
「いらっしゃいませ! もしよろしければ上着を?」
そっと気使い、ハンガーにかけてくれた。
「今日は、わざわざお越し頂いき、ありがとうございました。」
何気ないやり取り、社交辞令的な挨拶のようであっても、既に二人の間には強いつながりが、以前からあったような錯覚をするものだった。それは、有島が竹岡専務、否、ハピネスの事前情報をできる限り詳細に取材していた上に、紹介者である安西の強い思いを聴かされていたことで、有島にもその思いが乗り移っていたからではないか。
正美は、とにかく先を急ぐように契約書にサインと捺印を済ませ、そうして、一クライアントになったことを、待っていたかのように切り出してきた。
「ところで有島さん、私はこれから何を学び、何をどうすればよいのでしょうか?正直に言えば、今でもまだ私は、原因とか結果とか、理論的な哲学とか、それで何かが変わるとは思えないんです。釈迦に説法ではありますが、経営という現実は待ってはくれません。具体的に何をどうしたら、その現実を変えることができるんでしょうか?」
タバコを吸わない有島であったが、正美が愛煙家であることを知っていて、中央に置かれていた灰皿を、正美の前に押しやりながら、
「まあ。どうぞ一服点けて下さい! 専務が結果を変えたいのは、よく分かります。そのために今、契約もいたしました。ということは、私たちも、その責任を共有したことになります。結果を変えるという意味に於いてです!」
正美は聞き逃しそうになったが、『責任を共有』という一言に驚いた。自分の知らない何かを教えてくれる。その何かを契約料という代金を支払い、ノウハウを買うものと単純に考えていた。『共有?』・・・ 今まで何社かのコンサルタントとの契約をし、そのいずれも経営現場の改善プランやテクニカルな対策をプレゼンテーションする。そして、現実的には、その後の責任までは関知しないといったスタンスであった。実際に、それらのプランの限界を見切って、コンサル契約を打ち切ってきた。それが、アンビシャス自らが「責任」を先に言ってきたのには、本当に驚いた。有島は続けて、
「結果は変わります!変えるのではありません。変わるのです! 専務が言っている結果は、売上であったり社員だったりと、自分以外の事ではないでしょうか?つまり、外。外部環境を変えたいということですね!?」
それ以外に何があるというのか?正美は、また憤懣の気配を自分自身で感じたが、それを必死に押さえ込んで、
「はい。その通りです・・」
「外・・外に現れる結果的現象を変えたい。とするならば、その内・・内なる原因を変える事なんです。要するに、結果を変えるのではなく、原因を改めることによって変わるのです!」
原因と結果という、極めてシンプルな事実を、有島は楔のように打ち込んでいた。分かるか分からないか、理解できても出来なくても、この根本だけは、容赦しないとばかりに、様々な譬喩を織り交ぜながら、何度も何度も繰り返しメッセージした。
「原因のない結果はありません! 実は、その原因も一つではありません!」
ここで一息入れるように、コーヒーのお替りをし、日差しが強くなってきたことを気にしてブラインドを閉めてから、
「一つには、確認が出来る事実の解析から導き出した表面原因。次に、その表面原因をつくり出している本質原因。そして、その根本原因の三つがあります。私たちは、この根本原因こそトップリーダーの哲学であると言っています」
正美が聞きたいといっているのは、事実と現場を離れた理論上の質問である。だから、どうしても、その理論ばかりが印象に残ってしまう。有島は、アンビシャスの哲学上の理論を解説したい訳では決してなかった。決定的なのは、何をどうすればという実践上の問題意識が強い正美に対して、何をどうする以前の問題であると言っている有島のすれ違いがあることだった。
「専務、日を改めて伺います。是非、ハピネスの現場で現実に起きている様々な現象を通じて、それらの問題を、私たちが提唱する哲学を根本に解決しましょう!ご一緒に・・・」
また?『一緒に』って・・・正美は、有島の話していることは分かるが、内容の理解が出来なかった。なにより、分かって何がどうなるというのか?といった疑問も残っていたが、『責任の共有』『一緒に』といった、どこまでも身近な存在であるという安心感だけは感じ取っていた。
それから二人は、十一月十八日、正式な初回カウンセリングの日程を確認し、正美はアンビシャス本社を後にした。
アンビシャス本社を出た正美は、改めて、その本社の入ったビルを振り返り見上げながら、『とにかく、今は信じてみよう!それにしても・・・』結果を急ぎたい思いと、そのことへの明確なアプローチ策がない焦りが、苛立ちとなって、決して表情は冴えなかった。
帰り道、そんな心境が足取りを重くしているのか、四ッ谷駅までが遠かった。ようやく駅前の信号で立ち止まると、背広の胸ポケットから手帳を取り出し、その手帳に挟まっていた一枚の地図を開いて見ていた。
信号が青になると、正美は駅に入らず、そのまま新宿方面へ歩き出していた。地図を何度も確認しながら、新宿通りから一本細い通りに入った。しばらくすると、また新宿通に戻って、もう一本の細い路地の前で立ち止まり、地図を広げた。そして、首を傾げながら角にあった薬局へ入り、住所を確認した正美は、さらに新宿方面へ歩いて、ビジネスホテルの脇の通りを入って行った。
何か不動産の物件を探しているかのように、無数に立ち並ぶビルを見上げながら歩いている。すると、視線の先に、カタカナで「スカイマンション」の看板を発見し、ここで地図をポケットに仕舞い込んだ。
彼が東京に来た、もう一つの密かな目的。それは、あの三月に、素敵な一夜を過ごしたきり、それ以後、全く会うことが出来なかった幸恵を訪ねることであった。翌日に発覚した食中毒事件の最中にあっても、彼女のことだけは忘れられずに、何度か電話で連絡は取っていたものの、七月に入ってからは、その連絡もつかない状態になっていた。三、四ヶ月もの間、連絡が取れなくなると、さすがに、居てもたってもいられなくなった。が、現実はそれを許さなかった。事実上の経営トップリーダーである彼が、緊急事態の現場を離れることは出来なかった。だから、必死に逸る思いを抑え我慢した。
地図に書かれたマンションを確認した正美は、腕時計を見た。午後四時前だった。少し立ち止まって考えていた彼は、来た道を引き返していった。そして、今度は、コーヒーが飲めて時間がつぶせる店を見つけようと歩き回り、また新宿通まで出ると、営業しているのか不安になるほど薄暗い、昔ながらの喫茶店に入って行った。
事務員として働いている幸恵の帰りは、夜六時過ぎであることを知っていた正美は、二時間以上待たなければならなかった。『会いたい。一目で良いから会いたい。会えるだけで良い』アンビシャスでもコーヒーを出されて飲んでいたが、ここでも既に、三杯目のお替りをしていた。
この時期、日暮れの時間は早く、外は暗くなっていた。そして、日中の日差しが嘘のように小雨が降り出していた。ようやく時間を確認して店を出た正美は、傘の用意がないことを後悔したが、そんなことより急ぎ足で幸恵のマンションへと向かった。
夜露程度に濡れながらエレベーターホールまで来て、もう一度、地図に書かれている住所・五〇二号室を確かめ、エレベーターに乗り込んだ。そして、その部屋の前で慌てたように、もう一度地図を取り出していた。表札には、「金子」と書かれていた。
もしかして、部屋の間違いか、あるいはマンションそのものが違っているのか? かと言って、ここでは確認のしようがない。正美は、五階フロアー全部の部屋の表札を確認しては、また五〇二号室の前に戻って、地図を見直していた。そこへ、買い物袋を抱えた男女が近付いてきて、
「あのぉ、何か御用でしょうか?」
不審者を見るように、女性が訪ねる隣では、男性が何個も鍵が付いたキーホルダーを、ジャラジャラと鳴らして正美を見ていた。
「失礼ですが、こちら長沢さんのお宅ではありませんか?」
「何号室ですか?」
正美は、手に持っていた地図を二人に見せるように開いて、
「五〇二号室なんですが・・」
二人は顔を見合わせてから、
「五〇二は私たちの部屋ですけどっ・・」
すると男性が、鍵をポケットに入れてから、
「僕たち、先月引っ越したばっかりで、よく分かりません。ですが、前に住んでいた方だと思うんです、たしか、表札が『長沢』となってましたから・・・記憶違いだったら申し訳ありませんが・・」
「そうですか、大変失礼いたしました。ありがとうございます」
正美は、ガッカリした表情を咄嗟に隠し、二人に明るくお礼を言ってマンションを出て行った。
「そうか、そういうことか」と正美は察した。そして、「何故、どうして連絡をくれなかったのか?」と、複雑な思いに沈んでいた。それでも、他に幸恵を探す手立てはないかと考えながら、一人、新宿通の歩道を四ッ谷駅に向かって歩いていた。唯一、心当たりは、『幸恵の実家。でもまさか実家には行けない・・』
こうして、この日は、幸恵には会えずに、仙台に戻っていった。
翌十一月二日。
清水の消息が分からなくなって、ちょうど一ヶ月が過ぎていた。時間が経つにつれて、きっと清水が持っているであろう集金した、一千万円近いお金のことよりも、その行方が気になっていた正美は、支配人の荒木を、応接室に呼んでいた。
「ところで支配人、警察からは、何も言ってこないのか?」
「今のところ、まだ何も・・今日で一ヶ月が過ぎました。奥さんの麻子さんにも、連絡はないようです! 警察には、近いうちに私の方から行ってこようと思っています。」
「そうか、分かった。それから、君だけには話しておきたい事があるんだが・・・」
そう言ったのは良いが、少し躊躇してしまった。アンビシャスとの契約は、まだ話さないほうが良いのか?と迷った。正美は、思い出したように、ワイシャツの胸ポケットからタバコを取り出し火を点けた。普段と様子が違う専務に首をかしげながら、
「はいっ、何でしょうか」
「いやっ、いいんだ! また後で話す! じゃあ、清水の件は、何か分かったら教えてくれるか? ところで、明日の予約は何件入ってたかな?」
「五組の婚礼が入っています。それに、夜七時から、一組の二次会があります。あっ、そう言えば、その二次会のお客さんなんですが、安西物産の事務員さんの結婚式でして、明日、安西社長も出席される予定になってます。祝辞のようですよ!安西社長っ」
「あっ、そうか?そうだったのか! 荒木君、悪いけど後で、そのプログラムと席順表を持ってきてくれないか?お世話になってるし、ご挨拶もしたいし・・」
「分かりました。直ぐにお持ちします! それでは・・」
荒木が応接室を出て行ってから、正美は安西に電話をしていた。
「安西社長ですか?先日は、遅くまで、どうもありがとうございました。それから、連絡が遅れましたが、昨日、東京で無事に契約を済ませてきました。」
正美は、どこか自慢げに言っていた。
「遠くまでご苦労様でした。昨日、有島さんから伺いました。良かったですね! でも、これからですよ専務っ。ああ見えて、結構きついですからね、有島さんは。まぁ、何か分かんないことがあったら、いつでも連絡ください。私も相当、大隈には噛みつきましたからね! どうぞ遠慮しないで・・・」
「ありがとうございます。ところで社長、明日は、お祝辞だそうですね? 私もバタバタしていて気が付きませんでしたが、安西物産の事務員さんがご結婚されるんですか? もっと早く言っていただければ・・」
「いやぁ、そうなんです。人前で話すのは大の苦手で、今から緊張してます。何とかなりませんかね」
「いやいや、もうベテランでしょう!」
「専務、専務っ、ひやかさないでくださいよ!本当に・・」
そこへ荒木が、安西の出席する披露宴の資料を持って入ってきた。だが、電話中であることを見て、そっと正美の前に置いて、そのまま出て行った。その資料を見ながら、
「事務員さんは、えっと、伊藤みどりさん、勤められて永いんですか?」
「はい、高校卒業して直ぐですから、もう十年近くになります。彼女は、大崎市の自宅から、一時間以上かけて毎日通ってくれてるんです。でも結婚後は、二人で市内にマンションを借りて住むようなので、良かったなと思っています」
「そうですか、大崎市から毎日。大崎市・・大崎・・」
正美は、なぜか思いあたりのある住所が気になった。
「大崎が、どうかしました? もしもしっ、専務っ」
「いやっ、何でもありません。ところで、伊藤さんのお歳は?」
「えーたしか、二十七だったと思います!」
「ありがとうございます。是非、素敵な披露宴になるよう頑張ります!それでは明日、お待ちしております。」
急ぐように電話を切った正美は、思いあたりを探して、その席順表をジッと見ていた。そこには、十五テーブル・百二十名ほどの列席者の名簿が載っていた。まずは一番に、安西を探して見つけ、さらに、新婦側の列席者と見られるテーブルを、人差し指でなぞって見ていると、新婦友人・長沢早苗の名前の上で、その手が止まった。『長沢早苗』『二十七歳』正美は間違いないと思った。「妹の早苗」・・・裏付けを取るように、より詳しい情報が知りたくて、荒木に予約書類を持ってくるように頼み、それを見て、確信へ変わっていた。
翌日、正美は珍しく、礼服を着て館内にいた。それをスタッフも、何事かと驚いたが、取引先の安西社長が出席する披露宴があり、ご挨拶のためであると分かって安心した。それほど、正美は現場から離れていたのだ。一時期は、担当を持ち、時には司会までしていたが、ここ何年も担当はおろか、現場に顔を出すことも殆どなかった。
午後四時から、安西が出席する田中家と伊藤家の披露宴が始まる。正美はロビーに立ち、お客様のお迎えをしていた。と言うよりは、誰かを待っているようであり、探しているようにも見えた。だが、早苗の顔を知らない。それでも、幸恵の面影をメガネにして、一人ひとりを注意深く見ていた。
結局、披露宴が始まる時間になってしまった。正美は、上着の内ポケットから両家の席順表のコピーを取り出し、早苗の席を確認していた。そして、披露宴の演出を待って、宴席が歓談の時間になると会場に入っていった。列席者に会釈しながら、安西の席まで来て、
「社長っ、今日はおめでとうございます!先ほどは、立派なお祝辞でしたよ!」
「いやー、勘弁してくださいよ、もう参りました! でもこれで、ようやくゆっくり飲めます!今日は、お世話になります。」
「どうぞ、ゆっくりしていってください!また後ほど・・」
そう言って、両家のご両親が座るテーブルへ歩いていった。ここでまた、席順表を見て、新婦の友人が座るテーブルのなかから、早苗を探していた。すると、まさに幸恵似の一人を発見。もう一度、念のために席順表を見て、確認できたが、さすがに、このタイミングではと、声はかけられず、そのままご両家に挨拶を済ませ、一旦、会場を出た。
この日確かに早苗は、家も直ぐ近所で幼馴染、仲の良かった同級生の、みどりの結婚式に出席していた。しばらく実家に帰っていなかった早苗は、みどりの結婚を祝うと同時に、久しぶりに母に会えることを楽しみにしていた。ただ、幸恵のことだけは話せないという、複雑な思いを持って・・。
そして、今回の帰郷にあたり、早苗は礼子に連絡をしていた。
東京で礼子に幸恵の事情を打ち明けて以来、月に一~二度、連絡を取り合っていた二人。せっかく仙台に帰るこの機会に、是非、もう一度会いたいと言い出したのは、早苗の方だった。その二人は、披露宴の始まる前に、仙台駅構内のカフェで待ち合わせて会っていた。
いつもは電話の向こうに居る存在が、目の前に居ると思うと、それだけで不思議な感じだった。
「お久しぶりね!元気そうで安心したわっ・・」
「無理を言って、すみませんでした! どうしても会いたくなって・・」
全く不思議な関係である。正美と幸恵が、この二人の出会いを生んでいた。
「早苗さんねっ、電話では話せなかったんだけど、実は、今日の結婚式場の、ブライダルステージハピネスは、竹岡が経営しているの! 」
それを聞き、目を丸くしている早苗に、
「隠すつもりはなかったんだけど、話す機会がなくって・・ごめんねっ!」
「そうだったんですか? 私・・・」
「早苗さん、竹岡には会った事あります?」
「いえっ、ありません!」
「ごめんなさいね、お友達の結婚式が始まる前に、こんな話をしてしまって。でも、気にしないでくださいね!」
礼子はただ、早苗に事実だけを伝えたかった。
「あの人が早苗さんに気付くかどうか分かりませんが、その時は、早苗さんの思うままで良いんですからね! 本当にごめんなさい。お祝いの前なのに・・」
「私、どうしたら・・?」
早苗は、苦しい表情を浮かべて礼子を見つめていた。
「私の方は大丈夫だからね!心配しないでね。だから、早苗さんは、自分に素直に、正直な思いをそのまま・・・それだけよ!」
二人は、歳の離れた仲の良い姉妹のように、一時間余り話し、これからも連絡を取り合うことを約束して分かれた。
午後六時半、披露宴は無事お開きになり、両家のご両親はじめ、親族が帰った後、別室では二次会の準備が整っていた。館内に、そのことがアナウンスされると、多くの友人や会社関係の方々が、大きな引き出物を持って、会場に移動していた。
正美は、この機会を逃すまいと、タイミングをうかがっていた。二次会のプログラムを確認していた彼は、始まって三十分、礼服の上着を持って事務室を出て行った。そして、二次会が行われている会場の前まで来てから、上着の袖に片腕を通そうとしたとき、その会場から、早苗が一人で出てきた。思わず、正美は着るのをやめて、上着を脇に挟んだまま、
「早苗さん?失礼ですが・・長沢早苗さんですか?」
早苗は、『もしかして、この人が?』と直ぐに分かった。が、そ知らぬ振りをして見せて、
「はい、長沢ですが?」
「大変失礼いたしました。私は・・」
正美は、急いで上着を着て、ポケットから名刺を取り出し、
「ハピネスの竹岡と申します。実は、国分町のお店で、お姉さんの幸恵さんと知り合いまして・・・」
明らかに、人目を気にしている様子で、周りを忙しく見回している。
「東京に引っ越したと聞きましたが、大学生の弟さんは、幸恵さんは、お元気でしょうか? 慣れない東京で・・その後お変わりないでしょうか? ご兄弟三人で住まわれて・・いると・・か・・本日はおめでとうございます!」
なんだか支離滅裂である。可笑しくなってしまった早苗は、噴出しそうになり、思わず手で口を押さえていた。
「そうですか。と言う事は、姉さんのお客さんだったということですか?」
と、牽制してみた。
「えっ、まぁ、そういうことになります。」
この人は、幸恵姉さんが言うように、悪い人ではなそうだった。誠実と言えば、そう云えなくもないが、正直な人というよりは、嘘の下手な人。それが早苗の見立てだった。この時点で尚、全く何も知らないのは彼一人。
「姉さんは賢い人です。強い人です。だから元気だと思います。今は一緒に住んでいないので分かりませんが・・・失礼します!」
早苗は、ちょっと冷たく、含みを持たせるように云って、その場を去ろうと、軽く会釈をして歩き出した。すると正美が、
「一緒じゃないっ、幸恵さんは、どっ 」
早苗は立ち止まり振り返って、貰った名刺を見ながら、
「結婚式場の専務さんですよねっ、でしたら、結婚後の家庭も大事にしてください。特に奥さんを! 失礼いたします」
そう言って、早苗はトイレに入って行った。一方の正美は、それ以上、何も言えずに、少し肩を落として事務室へ引き返していった。
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