運命の星(十六)

十一月十八日。今日はアンビシャス第一回カウンセリングの日である。何となく朝から落ち着かない正美だった。それは、いつもより早い出勤となって現れていた。カウンセリングと言っても、午後一時からの予定であったが、正美は、一人カウンセリングを行うために準備していた、小部屋に居て安西に連絡を取っていた。『仙台駅までの迎え』や『カウンセリングのために準備するもの』さらには、『終わった後』など。
全く珍しい会社だなと、改めて正美は思っていた。特別なもの、否、何をどうしろと言うことが、一切ないのだ。決まっていることは、カウンセリングの日時だけ。それ以外、一つとして指示や注文がない。かえって、自分自身が無防備に感じてか、過去三年分の決算書と今期の月次資算表をまとめて用意していた。さらに、組織表と詳細なスタッフ名簿を、テーブルの上に重ねて置いた。
頼りの安西も、『何も要らないから大丈夫』と言う。いやっ、その何も要らないということが分からないのだが、『大丈夫、心配ご無用』とだけ。それが唯一のアドバイスだった。
正美は、自分で準備した資料に、改めて目を通していた。三期連続の減収減益。そして、来月十二月決算の今期は、間違いなく赤字になる。株式会社にした一九七七年以来三十一年間、その時々には、無理やりに帳尻を合わせるなどしていたが、一切赤字を出さなかったハピネスだった。だが、今期は小手先では到底それを免れない現状を、確認することとなった。
正美の決意は、既に父、武夫の病室で誓ったように、強く硬いものであった。しかし、その決意の中身は、「今後の展開と方法を如何に?」と言うものだった。しかも、一日でも早く手を打ちたいと言う焦りが、表情を硬くした。
そして、時間が経つのも忘れ、気が付くと十二時が過ぎ、正美は慌ててアンビシャスの有島を迎えに仙台駅に向かった。二年前に購入したばかりのBMW6シリーズのカブリオレで・・・。それだけを見れば、誰もハピネスの経営実態が、今際の危機にあるとは思えないであろう。
駅のロータリーに車を止めて待っていた正美を見つけ、有島が大きな黒い鞄を右手に持って、小走りに近づいてきた。
「竹岡専務、わざわざ迎えに来ていただいて、ありがとうございます!」
親しい友人との待ち合わせのように、満面に笑顔を作っていた。
「いえいえっ、こちらこそ遠くからありがとうございます。ところで、有島さん、お食事は?」
「えっ、済ませてきました!お気使いありがとうございます」
「そうでしたか、それは残念です。今度は、仙台の牛タンを、是非ご馳走させていただきます。 ではどうぞ、お乗りください!」
有島は、「ありがとうございます」といって、左側のドアを開けようとした。すると、
「有島さん、こちらです!」
と、右側のドアを開けてくれていた。乗り慣れない高級車に戸惑いながら、有島は鞄を抱きかかえたまま、『失礼します』と、一礼するように乗り込んだ。
二人は駅から約十五分ほどの間、共通の知人というか仲間の、安西と大隈を話題に談笑していた。
そうして、ハピネスに着いた有島は、専務がカウンセリングのために用意していた部屋に案内された。そこで、山積になっている資料を見て、カウンセリングに臨む姿勢が確認できた。
「有島さん、今日はどうぞよろしくお願いします!とにかく私は、一日でも早く、結果を出したいんです・・・その為だったら、何でも言ってください。どんなことでも実践したいと考えています!お願いします」
正美は、有島が席に着くや否や、自分の思うところを話し始めていた。そこへ、フロントの吉田愛子が、コーヒーを持って入ってきた。その吉田に眉をひそめ、「話の途中で、間が悪いなっ」と言った表情をした正美を、有島は見逃さなかった。
「どうもありがとう! えっ、吉田さんですか?お忙しいのに、申し訳ありません。」
胸のネームプレートを見て声をかけた。有島は、この場の雰囲気を和まそうと、
「吉田さん、下の名前は教えていただけますか?」
「はい、愛子と言います。よろしくお願いします。」
「愛子さん・・愛ちゃんですね!ゴルフでは宮里藍、卓球の世界では福原愛、スキー・モーグルの上村愛子、みんな美人で素敵な人ばっかりです。愛子さん・・良い名前ですね~」
吉田は、照れ笑いを浮かべ、持っていたトレンチで顔を隠しながら部屋を出て行った。そのやり取りを見ていた正美は、つられてでも笑えないほど、自分の世界に入り込んでいた。二人きりになってから正美は、
「私は今日、初めてカウンセリングを受けますが、安西社長と大隅社長を信じて、当社の現状を知っていただこうと思い、決算書を用意しております。それを確認して頂いた上で、是非とも、ご指導をお願いします。」
有島は、専務が用意していた、それらの資料には一切興味を示さず、ゆっくりとコーヒーを飲み干し、鞄からレポート用紙を取り出していた。そして、胸ポケットに差し込んでいたペンを持って、何かを書き始めた。
『原因と結果の法則』それは用紙中央に大きく力いっぱい書いていた。
有島は、早急に答えを求め、焦り浮ついている正美に対して、
「専務は結果を急いでいるようなので、私も結論から言いましょう!」
一気にトップギアに入れた有島は、
「今そこに積み上がっている決算書という数字は『結果』です。それは専務、あなた自身がつくったものです。他の誰でもありません、トップリーダーのあなたが・・・」
この時正美に、抵抗心はなかった。ただ、あまりにストレートな物言いに、驚きとショックが雑に心の中を駆け巡っていた。
「つまり、あなた自身が原因で、今現在の結果があるのです。」
そうキッパリと言い放った有島の目は、正美の全身を突き刺すように鋭かった。そして、怖かった。その表情は勝負師のそれであった。どんな時でも楽しくをモットーにし、ユーモアで他人を明るくする天才のような有島だが、今は違う。
「今のあなたでは、何をやっても全てが空回りします。間違いなく。食中毒も然り。もう既に、数字以外にも様々なマイナス現象が出ているはずです。それらは、あなたの言動、振る舞いの一切が、原因となっているのです! 勿論、そんな認識はないでしょう! 自覚してやるほどの度胸もないはずです。」
「これがカウンセリングなのか?これが・・」正美は、自分でも分からないが、極めて冷静だった。ここまでズバリ自分自身のことを指摘されるようなことはなかったため、かえって新鮮にすら感じていた。不思議な感覚だった。
「あなたが求めているのは、売上であり業績のアップですが、社員・スタッフの皆さんが、何を欲しているか本気で考えたことはありますか? お客様がこのハピネスに何を期待しているか、真剣に追及したことはありますか? 要するに、スタッフもお客様も全く見えていない。なにより、あなた自身が見えていない。今のあなたに見えているのは、売上と資金繰りという数字だけ!結果的に、今現在の専務、あなたはエゴの塊でしかない・・きっと周りには、そう映っているはずです。」
有島は、一旦ギアをローに落とそうと、呼吸を整えるように、もう一枚のレポート用紙に、『根本原因はトップリーダーの哲学』と書いて、滑らすようにテーブルの中央に置いた。それを見た正美は、表情の硬さも抜け穏やかに、
「哲学って何ですか?」
すると、有島はもう一枚のレポート用紙に、こう書いていた。
『物事の見方・考え方・捉え方』
「先ほど、全て空回りをするといいましたが、その原因がこれなのです!」
と、テーブルを叩くように、用紙の上に右手を乗せていた。
「見方、見え方に狂いがある場合、基本的考え方がエゴの場合、捉え方に於いて無責任且つ責任転嫁をする。」
手の平で隠されてしまった用紙を覗くように見ていた正美を、有島は鋭い視線で見つめていた。
「専務の場合、見方以前に盲目です。考え方は自分の事、会社経営のことが全てになっています。そして、捉え方は、無責任とは言いませんが、責任の所在を誤っています。社員ではありません。方法や展開に問題があるのでもありません。」
有島は、正美の表情、目の動き、仕草などを観察しながら質問してみた。
「専務は、スタッフをどう見ていますか?」
「社員ですか?」
正直に言っていいのか悪いのか?でも、ここで隠し黙っていて何になる。ここは素直にと、
「労働を提供し、それに応じて報酬を支払っている人間です・・か?で・も、社員が居なければ・・・」
「では、仕入先をどう見てますか?お客様の存在はどうですか?」
有島は間髪入れず立て続けに聞いた。
「仕入先・・お客様・・見てる?見えている・・・か?」
数ある仕入先からより安い業者を選んで、仕入れてやっている・・業者の売上を作ってやっている。ある意味守ってやっていると思って・・・だが、もしそれがなかったら。そして、お客様は、有難い存在で・・多い少ないではない。正美は、
「有島さんっ、見方って・・・言われて見れば、自分の都合の良いようにしか見ていませんでした。建て前としての考えはあっても、本気ではなかったし、そうは見ていませんでした!」
急に顔を上げ、声を大にして有島の質問に答えていた。
「事実は一つでも、見方によって変わってしまいます。考え方も捉え方も様々です。その根本になるのが哲学なのです!ご理解いただけますでしょうか? この根本に誤りがある場合、全てを見誤ってしまいます。そして、全てが間違った判断・決断・行動へと連動して行くのです!」
有島は、ここでギアをニュートラルに戻して、
「専務っ、考えてみてください。売上の前に、お客様です。そのお客様に提供するものは仕入先から。なにより、スタッフの存在が、最も身近で最も大切な存在ではないんでしょうか?」すると、
「反対でした!全く逆さまでした!」
「そう気が付いたのであれば、とるべき行動が見えてきたのでは?先ず何を成すべきかも分かったのではないでしょうか?」
正美の目には力が入り、その目は真っ直ぐに有島を捉えて離さなくなっていた。
「ありがとうございました。と言うより、恥ずかしくなりました。でも、見えてきたような気がします! 私が原因だったって事だけはハッキリと・・・」
こうして二人は、この後、何度も何度も理解で止めることなく、身に刻むように繰り返し確認して、第一回カウンセリングを終えた。
十二月一日(木)正美は休日をとっていた。完全OFFは思い出せないほど前で、かれこれ半年ぶりになる。業務上の月末支払い、その他の段取りを付け、何もない一日だったため、少々寝坊をしてしまった。午前十時半。勿論、子供たちは学校に行って居ない。礼子は、両親の看病と介護で出かけていた。
そんな礼子に対し内心では申し訳ないと思いつつも、自分をコントロールできずにいた。「思いはあっても行動が伴わない。」「そうしなければと思ってはいても出来ない。」単純に愚かしいことではあるが、それが現実だ。誰も身に覚えのあることではないか?それは家庭の日常だけでなく、会社でも全く同じで、自分自身にイラ付くことさえある。
二週間前のカウンセリングで気が付いたと言っても、実際の現場に立ってしまうと、その通りにはいかないことばかりだった。理解をし実行しようとしても、惰弱で我侭な自分が、そうはさせてくれない。それを、意志の強い弱いだけでは言い切れない難しさがあるのが人間ではないか?まさに感情の動物を身で演じているようであった。
来週の十二月七日は、礼子の誕生日。正美は寝起きのパジャマを着替え、駅前のデパートへプレゼントを買いに出かけていった。それは、せめてもの罪滅ぼしとばかりに、予算を奮発しようと、途中、銀行のATMで現金を引き出していた。単純素朴と言ってしまえばそれまでだが、礼子が今一番何を望んでいるのか?を知ろうともしない。正美の思考回路はここでもまた、自己中心に動いていた。決して悪いことをしているわけではないが、完全に的を外してしまう善意の空転現象!。これが怖いところなのだ。人間を知らない。相手を知ろうとする謙虚さと考えを持たない。結局、相手を無視するようなことを、平気でしてしまう。実にこれを無知というのか。
散々悩んでプレゼントを手にした正美は、モーニングコーヒーに有りつけなかった事を思い出し、近くのコーヒーショップへ入っていった。席に着きタバコに火をつけ大好きなコーヒーを一口飲んだところに、隣の席に置いたプレゼントの送り主の礼子から携帯に電話が入った。
「私です。あなた、今どちらですか?」
「おはよう!ちょっと寝坊してしまったようだ。今、駅前のコーヒーショップだけど、どうした?」
「直ぐ病院に来てください。お父さんが急に・・・」
セルフショップだったが、正美はテーブルをそのままに、プレゼントも忘れそうになりながら、急いで病院へ向かった。
武夫の容態は重篤だった。『年内』というドクターの診断で、覚悟はしていたが、既に意識がなくなっている父を前に言葉を失っていた正美に、主治医からご家族を呼ぶように告げられた。そして、翌午前二時、意識が戻らないまま息を引き取った。竹岡武夫・享年六十七歳。戦後の激動の時代を生き抜いた人生は、平成の世に散っていった。
自宅療養中の病弱な妻・洋子の容体は芳しくなく、葬儀、告別式にも出られず、武夫と入れ替わるように病院へ入院。そして、それから僅か三日後の十二月七日、奇しくも礼子の誕生日に、武夫の後を追うように、この世を去った。ここに、見えなくとも強い夫婦の絆のようなものを感じずにはいられない。
この十日間で両親を相次いで亡くしても、それを悲しむことさえ許されないで、竹岡家の長男として世俗的な儀式の全てを夢中で執り仕切り、傍目には立派に子供としての勤めを果たした正美は、文字通り空虚な自分を静かに客観視していた。
『今までの自分は、何不自由なく育てられ、恵まれた環境の中で生きてきた。それをどこか当然のように、特別何も感じてこなかった。勉強が好きで入ったわけでもない大学にも、黙って行かせて貰った。無目的に、ただその日暮らしのように生活していた時期もあったが、それも両親の庇護をあてにしていただけ。好きなことだけを考え、したいことだけをした。ハピネスに入ったのも、成り行きで、それも引かれてあったレールに乗っただけ。いったい自分はこれまで何をしてきたのか?自分自身で何かを成し遂げたことがあるだろうか?何かを得たい、より豊かになりたい、人より良くなりたいと、漠然と考えてはいたが、既に多くのものを得ていることを知らなかった。今現在の豊かさも感じられなかった。ひたすら際限のない欲望だけで生きていたようなものだ。そして今、唯一最も大事な存在を失ってしまったような気がしてならない・・・否、大事なものは他にもあるはずだ! なにより、これからの自分は、何のために生きたら良いのか?誰のために、何を成さねばならないのか? 会社? 家族? 働く意味? 経営の目的? 生きるという本当の意味は? 』
一人応接室に篭り、足を組み両手を頭にして天井を見上げていた正美の目からは、今日まで流すに流せなかった涙が止め処なく落ちていた。
外は今年初めての冬将軍到来で、北西の風が強く荒れ模様。時折、応接室の窓を揺らしていた。もう何時雪が降ってもおかしくない季節である。それは、正美の心境に似て、鉛色の雲が辺りを暗く重たく、そして寂しくしていた。
正美は、なかなか仕事が手に付かず、この日も半日を応接室で過ごしては、あてもなく館内をうろついていただけ。自宅に帰っても、日頃から口数は少なかったが、最近は極端に無口になっていた。礼子の方はといえば、結果的に両親の看病と介護から開放され、これまでの生活のリズムを取り戻していた。
深夜十二時、正美は寝静まったリビングにいて、先月のカウンセリングの時に有島から渡されたテキストを開いていた。明日は第二回のカウンセリングの日。予習と言うことで読んでおくように言われていたのだった。
誰もいないリビングは実に静かで集中できる環境ではあったが、正美の網膜には何も映っていなかった。思考が停止しているようだ・・・いやっ、思考を動かす心が停止していたのだった。
いつもの癖でタバコだけは何本も火をつけては消していた。眠いという感覚もなく、寝なければと言う思いだけで、そのままソファーに横になり眠ってしまった。それに気が付いた礼子が夜中に毛布を掛けてやっていた。その毛布に頭から包まっている正美を起こさないようにと、子供たちも気を使い、今朝は妙に静かな朝である。そして、子供たちが出払って、朝九時、礼子に優しく起こされた正美は、無言のままシャワーを浴び、身支度を整えて会話も無く空気のように家を出た。
出勤したハピネスは、相変わらず各部署でそれぞれ勝手に朝礼を行っていた。正美は、何か特別なことがない限り、その朝礼には出ることがなかった。
それよりも、今日は先月に続き二回目のカウンセリングがある。心ここにあらずの心境ではあったが、なぜだか有島の来社を心待ちにしている自分がいた。今この状況になってはじめて、一切の後ろ盾をなくした不安と寂しさを味わい、それと同時に、父・武夫の存在の大きさを身に染みて感じてもいた。
その有島は昨日、大英食品のカウンセリングのため、市内のホテルに宿泊していて、今日は大隅社長がハピネスまで送ってくれる予定になっていた。
昨夜は見ていても見えていなかったテキストに、改めて目を通していた正美は、一ページ目を開いて、その手は止まってしまった。
『行き着く港のない船に、風は決して帆を押さない』
・・・俺のことだ!ハピネスそのものだ!
『成功への原点』
・・・無い!何が成功なのか?分からない。原点とは何なのか? 全く分からない。この瞬間、空っぽな自分を発見すると共に、テキストの一文字一文字が、分からないながらも、猛烈な勢いで飛び込んでくる感覚だけがあった。もう一時間以上、そのページは開かれたままである。さらに一時間が経って、内線でコーヒーを頼み、いつもの習慣でタバコをふかしていた。
そこへ突然、有島がスタッフに案内されて入ってきた。たった今、内線電話で有島の到着を伝え聞いていたのだが、正美の意識は完全に飛んでいたのだ。正美は有島を見て慌てて立ち上がっていた。
「おっ、おはようございます!あれっ、今何時でしょうか?あっ、申し訳ありません。お迎えも出来ませんで!」
テキストを持ったまま、腕時計を見たり部屋を見回したりと、ジタバタしている正美に、
「いえ、大隈社長が午後から用事が入っているということで、ちょっと早めに送っていただきました。驚かせてしまったようで、失礼しました! それより、本当に大変でしたね、さぞお疲れでしょう。」
有島は、ご両親を亡くされた心中を察しながら、出来る限りそっと触れるように気遣った。
「いえ、こちらこそ、その節は、お忙しいところ本当にありがとうございました。まあ、どうぞ!」
十二時半を少し回ったところであった。正美はまだ立っていた。
「有島さんお食事を何か用意いたしましょうか?遠慮なさらないでください!」
「ありがとうございます!せっかくですが、大隅社長と一緒に済ませてきたところなんです! 是非、今度は牛タンをご馳走してください!楽しみにしています。」
正美は心の準備が出来ていなかった。だからあえて、食事で時間を作ろうとしたのだが、その当ても外れてしまった。
「では、コーヒーでも・・」
といって、いつもならば、内線で注文をするところを自ら注文に部屋を出て行った。そして、そのままトイレに駆け込み、鏡の中の自分をじっと見つめ、大きく深呼吸して顔を洗っていた。それから、ゆっくりと落ち着いた自分の表情を、もう一度鏡で確認してから有島の元へ戻った。
「いやっ、今日はどうぞよろしくお願いいたします! 食事が済んでいるのであれば、食後のコーヒーはいかがでしょう?」
コーヒーを頼みに出て行ったはずなのに・・?有島は、明らかに専務がいつもと違うことに気付いた。
「はい、頂きます!専務はコーヒー通だと聞いていますよ・・私も嫌いじゃないので遠慮なくっ!」
今度は、いつものように内線でコーヒーを頼んでいた。有島は薄い笑みを浮かべながら、鞄の中から資料を取り出しカウンセリングの準備を始めた。そして正美の前に置いてあったテキストを見れば、一ページ目をキツク折り曲げてあり、蓋が開いたようになっていた。
「専務、約束通り予習をなさったようですね?」
有島は、正美の手元を見ていた。正美は少し照れ笑いを浮かべながら、つい正直に、
「色々あって、夕べ初めて開いたんですが、開いただけで・・実はようやく今日、読ませていただきました・・・でも、最初のページの内容がっ」
カウンセリングは始まっていた。有島は正美の微妙な動揺と仕草を見切って、
「専務は感性が豊かだから、感ずる箇所があったようですね?実際、当社のテキストは、頭で読んで理解しようとしても理解できるものではないんです!分かろうと読んでも無理なんです!アンビシャスのテキストは素直な自分で感じ取るものなんです。」
そう次の感想を誘うように言うと、
「有島さんにはまだ話していませんでしたが、社長が入院した翌月には、代表権を父から引き継ぎました。ですから、登記上は私が代表取締役になっています。それも全部、父が病床で・・・」
つい思いが溢れてしまい、言葉を詰まらせた。
「そうでしたか、お父さんが・・・そこまで。私も是非一度お会いしたかったで・・」
「有島さん言ってましたよねっ、肩書きじゃない!と。でも今は、その肩書きも、責任も全てにおいて、私がこのハピネスのトップリーダーになったわけです。有島さん、私はこれから、何のため、誰のために経営をしたらいいんでしょうか?前に、和休の村岡社長に、何のために経営しているのかと聞かれて、その時は答えられませんでした。というよりも、真剣に考えたことがなかったんです。私は、ハピネスは、これからどこへ向かって行ったら良いんでしょうか?ここにある、行き着く港が分かりません。成功も原点も分かりません!」
何度もテキストを指差しながら、訴えるように話す正美は真剣だった。それは、彼自身の身の回りに次々と起こる事件や事故、そして、目の当たりにした両親の死という現実が、彼の内奥を揺さぶり動かしていたからに他ならない。
有島は、その正美を見て思っていた。「食わんがために始めた事業。そのプロセスは必死に、その時々を生き抜こうとする生命力と、何があってもと言う前進の熱意によって築かれてきた尊い事実がある。だがもう一方で、その生きると言う根本を知り得ず、経営本来の姿と実態も覚知でずに継続してきた危うさが、証明されてしまったという二つの事実を。」
「今日が原点です、出発点です。」
有島は力強く、慈愛を込めてそう言った。正美を想う思いが有島の涙腺を緩ませていた。
「専務っ、今日は難しい話は無しです! 専務のストレートな質問に、私もストレートにお答えします!」
同じテキストを開いて、シンプルに且つ端的に語り始めた。
「何の為?誰のため? 経営トップリーダーとしてのそれは、スタッフのためです。スタッフ一人ひとり、その家族のためです。ハピネスは何の為?誰のため? 地域社会のため、お客様の満足と喜びのためです。そして、取引先のためでもあります。結果的には自身と家族のためにです!これが原点です!」
分かりやすかった。至極当たり前のようでありながら、見失っていたことであった。建て前にしてきた。本心ではなかった。正美の顔色がみるみる赤らんでいた。有島は続けて、
「成功とは? 今申し上げたことを明確に設定し、目指し続け、追及し続けて行くプロセスそのものを、私たちは成功と定義しています。ですから、成功の具体的姿はないのです。つまり、売上でも会社のサイズでもない。まして利益の額で計るものでもないのです。理想を掲げ、ロマンを持ち、目標を立て、現在から未来へと向かうハピネスそのものが成功の姿とも言えるのです!」
有島は、ここでコーヒーのお替りと水を催促していた。実際に、感情移入していた有島は、口が渇き回転が鈍っていた。それでも尚、テキストの一説を借りながら、
「専務が開いている次のページにあるように、今日から専務は、キャプテン・クックです。『我こそが運命の支配者にして、我が魂の船長なり』とあります。これからは、環境に振り回されることなく、環境を支配する主体者となっていただきたいのです。ハピネスの魂です。専務の一念で必ず変革できます! 専務の決意こそが出発点となるのです。」
ジッと目をつぶって、全身で聞いていた正美は静かにゆっくりとその目を開け、有島の目を見つめて言った。
「これは私自身の問題です!トップリーダーとして・・・一人でも多くの人を乗せ、幸福の港を目指して出航します。羅針盤となってください! 海図を授けてください!」
正美もまた、テキストの一説を借りて、決意を語った。そして、いよいよここから本当の戦い、変革の戦いが始まったのである。
この日のカウンセリングによって、行き先の見えない茫漠とした不安はなくなり、希望という二文字が灯台の明かりのように点滅して見えた。
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