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運命の星(十七)

運命の星(十七)

仙台駅前を中心に、町中がクリスマスから年末に向かうネオンで溢れていた。それは長引く経済不況・デフレを感じさせない明るさだ。正美にとって大きな大きなターニングポイントとなるであろう二〇〇九年も終わろうとしている、十二月二十日。今日は午後から急激に冷え込み、外は初雪が舞っていた。夜七時を過ぎてまだ、正美はハピネスの応接室にいた。そして、彼を前に座っているのは、支配人の荒木だった。

実は、十二月十七日のカウンセリングの翌日から、有島に提案されスタッフ一人ひとりからの取材を行っていた。『先ず、専務自身の現在地を知ろう』と言うことが、その目的で。現在地と言いながら、正美自身がスタッフからどう見られていて、何を期待され、一人ひとりが望んでいることはなんなのかといった聞き取り取材であった。

始めは、『専務は突然、何を言い出したのか?』と、警戒してなかなか本音は話してくれないだろうから、時間を掛け真剣に聞くことが大事である。とのアドバイスも付け加えられてはいたが、実際は、『どんなことでも良いから、遠慮しないで話してほしい!教えてほしい!』その一言で、スタッフ皆の中に、溜まりに溜まった思いが堰を切ったように出てきた。

『身勝手』『会社が全て』『売上以外は無関心』『結果主義』『冷たい人』『仕事は好きだが会社は嫌い』『楽しくない』等々。それは、正美にとって辛辣な内容だった。否、事実だった。スタッフの正直な思いだった。何人ものスタッフが既に辞表を用意して持っていた。こうして、もう三日間、朝から晩まで全スタッフから聞かされ続けていた。そして、最後の一人が荒木だった。

荒木は、専務が一人ひとりと面談をしていることは聞いて知っていた。それ以前に、専務に呼び出されたといって、どうしたら良いかと質問されて、『思っている事、言いたい事があれば隠さず話すように』とアドバイスしていたのだ。

「支配人っ、俺は」

「専務、急にどうしたんですか?何があったのでしょうか? きっと色々なことを言われたでしょうが、本心はここで頑張りたいんです!ブライダルの仕事が大好きで、ハピネスで働きたいんです!みんなの思いはそうなんです。本当です! ですが・・・」

「本当に悪かった。知らなかった。見えなかったんだ!自分が・・・」

正美は、身を乗り出しテーブルに両手を付いて、アンビシャスとの契約を打ち明けた。そして、テキストの一ページ目を開いて、先月と今月の二回のカウンセリング内容を、復唱するように語った。語れば語るほど恥ずかしくなり、切なくなり、申し訳ないという思いで、言葉は途切れ途切れになってしまった。スタッフの前では見せなかった姿だが、荒木の前では力ない自分をさらけ出していた。そして、大いに悔いた。

「そうだったんですか? 実は私も・・」

といって、胸に忍ばせておいた辞表をテーブルの上に置いた。それを見た正美は、何度も小さく頷いていた。そして、

「よくこれまで辛抱してくれた。ありがとう!俺だったらとっくに・・・それを、よく我慢し・・・」

「専務っ、自分は」

「支配人っ、もう一度、もう一度だけ俺にチャンスをくれないか?チャンスを。これからではなくて、今までの償いをさせて欲しいんだ!これまでさせてしまった苦労の償いを。」

頭を下げ肩を落とし、何を憚ることなく懇願していた。

「専務、頭を上げてください。お願いです! 自分も、無責任な責任のとり方を考えてしまいました。」

そう言って、辞表の入った封筒を真っ二つに破りテーブルに置いた。

「私も一緒に連れてってください!その幸福の港へ・・ハピネス号に乗せてください。船長について行きます!」

もう言葉はなかった。いらなかった。正美は震える手を荒木に差し出し、荒木は思いの丈を込めるように、両手で力いっぱい握り返していた。

人間の感情は時に傷つけ合ったり、すれ違いや誤解を生むこともあるが、感情のベース・基礎ともなるアンビシャスの哲学は、人間対人間を根底で繋ぎ合わせる力を持っているようだった。事実、その後正美と支配人の『絆』は、何人もの退職希望者を繋ぎとめる結果となって現れていた。

この日を境に、ハピネスは油の切れた機械のように、ギシギシと音を立てながらゆっくりと動き始めた。さらにもう一つ、有島から実行を言い渡されていたことがあった。それは、誰よりも早く出勤すること。そして、誰よりも遅く帰ることであった。

これにはスタッフ皆が驚いた。今までは正に重役出勤が当たり前の専務が出勤前に、ほぼ外掃除を終わらせていた上に、コーヒーを頼むと強請るだけだったのが、出勤時間には、ロビーにコーヒーの香りが漂っているのである。『果たして何日もつか?』といった、陰で囁かれてもいたが?続いていた。

クリスマスには、荒木支配人に手伝ってもらいながら、朝から一軒一軒スタッフの家庭を訪問してはケーキを配って歩いた。また、取引先にも支配人と共に表敬訪問と称して、スタッフと同じく取材とお詫び行脚をしていた。こんなことは、今までには一切なかったことである。付け焼刃のようにも見えるが、決して無理をしているのでもない。自然だった。正美の中で何かが変わり始めていた。

そうして、年末の二十九日には、ここ何年もやっていなかった忘年会を、一泊で秋保温泉のホテル和休で行ったのである。当然、和休の村岡は全スタッフ上げて大歓迎するとともに、まるで自分の事のように喜んだ。

人間には感情もあれば心もある。希望と喜びの感情は熱意や情熱という前進のエネルギーになるが、希望を失い傷つき憂いを持った心は、どこまでも人を無気力にしてしまう。その人間が集い一つの組織になったとき、考えられないような力を発揮したり、反対に、思いもしない事態を引き起こしてしまったりと、考えてみれば実に怖いことである。

この日スタッフは、大いにはしゃいでいた。飲んで食べて、そして歌った。朝まで語り明かし、笑い、泣き、また笑った。本当に楽しかった。実に不満と不安を放電し、喜びと活力を充電しているようでもあった。

翌朝、正美と荒木の二人はホテルのダイニングで朝食をとっていた。オープン以来初めてのことだが、今日から五日間、年末年始の休暇に入る。これまでであれば、いくらかでも、少しでも売り上げを見込んで営業を続けていた。このことからも分かるように、正美の中では経営に対する考え方、否、スタッフへの思いが確実に変わっていた。

今日は、スタッフも自由解散になっている。当然、予定はお互いフリーであった。二人は、場所をロビーに移し食後のモーニングコーヒーを楽しんでいた。そして、改めてこの一年間を感慨深く振り返りながらも、来年の展望を語り合って荒木は席を立って行った。そこへ、正美の携帯が鳴った。発信者は安西。

 

ハピネスの変化を身近によく知り、誰よりも喜んでいたのは安西その人。その変化の起点は、当然正美である。アンビシャスと契約して二ヶ月、先輩クライアントとしても、その実践経過は興味があるところでだった。

短期間ではあるが、実体験を聞かせてもらいながら、忘年会をしようと誘いの電話だった。実のところは、安西企画の『竹岡専務・激励会』でもあった。メンバーに村岡社長と常務も誘ってみたが、残念ながら年末で、二人とも現場を離れられる状況じゃなかった。と言うことで、いつもの三人は、激励会企画の趣旨とは反対に、いつものお礼にと正美が手配した小さな割烹料亭にいた。

ここは、今は亡き武夫の、古くからの業界仲間の店であった。だから、急な予約にも無理を聞いてもらっていた。こうして男三人の忘年会兼激励会が始まった。

「専務、本当に大変でしたね。立派なご葬儀でしたよ、本当に。」

「安西社長にそう言って頂けると、ありがたいです。嬉しいです。色々ありがとうございました。」

交わした言葉はそれだけだったが、二人は武夫との約束、誓いを胸中で確かめ合っていた。

「ところで、いつ以来かな?こうして三人で飲むのは?」

「もう三ヵ月近く前になるんじゃないか? それにしても早いよな!歳かな俺たち? 五十だよ五十」

「いいえっ、五十一です!俺はまだ五十だけど、お前はもう先月で五十一になりました!」相変わらず、全く飾らない安西と大隈の二人だった。

「ところで専務、その後どうですか?アンビシャス!結構来るでしょう?ガツンと。」

有島を良く知る大隈は、ストレートに聞いてみた。

「いやぁ、色々聞いてますよ!専務が変わったってね。スタッフの皆さんだけでなく、業者の間でも話題です。ちょっとしたカルチャーショックってやつですかねぇー」

少しばかりちゃかして見せたのは安西だった。そして、それまで笑顔で相槌を打ちながら二人を観察していた正美は、その流れに乗ろうと、

「来てますねぇー本当にガツンと。そこまで言うかって位にね!正直、なんてところを紹介してくれたんだって、お二人を恨みましたよ! お客であるはずの私が、本気で怒られるんですから、私の方こそカルチャーショックですよ!」

すると、二人は手を叩いて大笑いしていた。安西は大隈の肩を叩きながら、転げるように爆笑していた。

「でしょう!ちょっとおかしいですよね? 結構高いお金を払ってる、こっちが怒られるんですから・・・俺なんか、前のコンサルタントの担当者を唸り飛ばしてたけどね!」

誰も同じだなと嬉しくなって、安西は本音で言っていた。大隈もまた、

「俺なんか二代目だから、なんて言われたと思う? 宿・命・的・経営者だってよ!実力で成ったんじゃないだから錯覚するなっ!だよ。瞬間的にはカチンときたね、さすがに・・・」

「でも、それ本当のことだろう!」

すかさず安西が突っ込むと、

「いやぁ、そうなんだよ実際は・・だけど、そこまでハッキリ言うか?」

「言うんだよ!アンビシャスは。それはお前が言ってたじゃないか! 実際、言ってくれる人がいないんだよな、社長になんかなっちゃうと・・」

せっかくの料理も、手付かずで話し込んでいる。とっておきの芋焼酎の水割りも氷が解けて薄まってしまっている。そのグラスを手に、半分近くを一気に喉に流し込んでから正美が真顔で、

「実は私もこう言われました。『あなたは盲目だ!』って。『自分自身を含め何にも見えていない』と。直ぐには何を言っているのか分かりませんでしたが・・・その通りでした」

ここまでの空気が一変する真剣なニュアンスに、安西と大隈は思わず焼酎を一気に飲み干していた。

「ほんの少しですけど、コンサルではなくカウンセリングというものが分かったような気がしました。方法論でもない、テクニックやシステムでもない、自分自身なんだって事も・・・すいません!堅い話になってしまいました」

「いや、いいんです。自分のことは自分が一番分かっているようで、実は分かっていない。相手、周りに映っている自分の姿を知らないと言った方が良いかもしれないねっ」

大隈も真顔で話を繋いだ。

「俺も学び始めて二年、生意気なようだけど自分でも変わったと思っている。それは、俺自身というよりは、今までには無かった哲学を持ったという意味で、これまでとは違う自分を発見することがあるんだ」

安西もまた、何かを確かめるように言っていた。その三人を包んでいた空気は、穏やかに互いを思いやる優しさ、そして、次第に強くなって行く友情を感じさせた。

ここで安西は、訳も分からず嬉しくなり、もう一度強引に乾杯をしてきた。そして、以前から、安西と大隈の酒の肴でもあった正美のプライベート問題が、どうしても気になって、自分の担当カウンセラーである矢神の指導を呼び水のように話した。

「話は変るけど、いつだったか矢神カウンセラーの指導で、本当にドキッとさせられたことがあったんだ・・・『あなたは今までに何人の人を泣かせ、何人の人を騙してきたか?身に覚えあるか?』って、突然言われてさぁ、参ったよ!何を言うのかと思ったら今度は、『人の不幸の上に成り立つ幸せはないんだ!』こうだよっ。そして結論はこうだった。『結果という未来を良くする前に、過去に犯した罪の清算が先なんだ!』しかも、『身に覚えがあることもないことも』って、ビックリしたよ。矢神さんは何か知っているのか?ってねっ!」

安西の話に含みを感じた大隈は、何かピンと来たように、

「俺も有島さんから言われたことがある。『事がバレようがバレまいが、犯した罪は同じで、決して消えてなくならない』って。それって脅かしか?とも思ったけど、俺自身が原因の全てであれば、過去も含めて清算しない限り、良い結果は望めない。原因と結果の法則だったかな?アンビシャスは一々うるさいと言うか、それが口癖の『道理』『本質』なのかな?」

さすがに息が合っている。安西は嬉しそうに続けた。

「俺も言われてみれば確かに、女房は相当泣かしてきた。それは自覚もあるし認める。騙したことも・・騙すつもりではなくても結果的にだけど・・・どこか都合の良い言い訳をして、ストレス発散だ、男の甲斐性だと勝手に思ってきた事も! でも、気が付いた時に清算しておかないと後が厄介になるのは分かる気がして・・・これもアンビシャスの言う『方程式』か?」

「そうなんだよな、聖人君子になれってことではないだろうけど、自分一人の事では済まないんだよなぁ、リーダーと言うポジションにいる限りは」

それを黙って聞いていた正美は、下を向いて目を閉じていた。安西は、興味本位で水を向けていたわけではない。安西自身にも、それなりの過去があったし、一人の男として見れば、全く同情できる事である。ただ、正美の噂は、商売上決してプラスにはならないことを思ってのことだった。

「俺も今、過去の清算で一杯だよ!お陰で、危機的だった夫婦関係も修復に向かい・・つつ・・あるってとこかな? 大隈っお前はどうなんだ?」

「俺はそのっ、あれだよ・・一度バレてるし、グリーンの用紙を突きつけられたこともあるからなーっ でも今は、有島さんの実体験からのアドバイスのお陰でなんとか・・・」

「まぁ、皆そんなもんだよな~。専務、どうしました? 急におとなしくなっちゃって? 俺たちみんな生身の人間です。色々あって当然じゃないですか? アンビシャスは、そのありのままの人間を決して否定しません。その人間自体を追及しているような会社です。まったく珍しい会社です!数字より人間って言いますからね・・・よく分かりませんが?」

この話題になってから、正美はまだ一言も発していなかった。意外な展開ではないが、二人には見透かされているような気がしてならなかった。しかも、自分の中だけに、そっと仕舞い込んでおこうと考えていたことも、『清算』の一言で、正美の口は塞がれてしまった。だが思わず、

「清算ですか? こんな席でなんですが、清算するってどういうことでしょうか?」

真剣な表情で聞いてきた正美に、二人はかえって驚いた。始めから正美を追及するつもりはなかった。安西は、正美を心配しながらも、気が付いてくれれば、それでよかったのだが、そうも行かなくなってしまった。明らかに身に覚えがあって聞いている。

「専務っ、決して深刻な話ではないですからね! 今までは過去の事として見過ごしてきた俺たちの恥ずかしい一面も、アンビシャスに言わせれば、それも大きな原因の一つとして、改められることは改め、『犯してしまった過ちは、決して消せないが、その意味は変えられる』これも、矢神さんの指導だったかな?意味はいまいちよく分かりませんが・・ まぁっ、そういうことです!」

安西は無理やり、この話題を着地させようとした。大隈もそれを手伝うように、

「結局は、だらしない自分自身を変える戦い、無防備に生きて来てしまったツケを払わないといけないって事ですね!お互いに・・・」

「なんだか、まだ何も分かっていないアンビシャスの哲学を、本気で話し込んじゃったみたいだな。酒も料理も全く進んでないぞ。食べよう!焼酎造ろうか?ほらっ大隈、飲めよ!」

安西は、分かりやすく場の話題も雰囲気も変えようとしていた。そして、大隈の加勢もあって、その流れで宴は盛り上がり、三人だけの二〇〇九年を締め括る忘年・激励会はお開きになった。

 

翌二〇一〇年お正月。正美は家族五人で、テレビの正月特番を見て過ごしていた。結婚以来始めてのこと。特別な会話はなくとも、家族はリビングに集まっていた。テレビは凄い。普段から何を話したら良いか分からずにいた三人の子供たちと、見えない距離のある夫婦を全部ひっくるめて纏めてしまう。

その家族が居る家は、正美の実家であった。それは、正美の素早い行動力の一端か?両親が亡くなって直ぐ、これまで住んでいた自宅を売りに出し、欲しくて手に入れたBMWもディーラーに引き取ってもらっていた。それも、正美の変化の一つであろう。それにしても、家にいることが少なかった彼は、時間の使い方を知らなかった。それとはなしに、子供たちに聞いてはみたが、特別何もなさそうだった。

子供たちは子供たちの世界で精一杯生きている。子供とは言いながら、一個の人間としてストレスもあろう、悩みや不安だって持ちながら、毎日を送っている。そんな生活の中にあって休日は、唯一のオアシスである家の中で過ごす。それ事態が休みの日なのだ。誰にも気を遣わず気兼ねなく居れる。それが良い。

かえって正美は、あれこれ考え気を回しているだけで疲れてしまった。正月に休んだことがなく、テレビを見ているのも飽きてきた彼は、今では形見となってしまった、親父の車で一人家を出た。

向かった先は、車で五分足らずのところにある青葉城。正美は駐車場に車を止め、仙台市内を一望できる仙台城・本丸跡にいた。そこには、正宗騎馬像がその当時を思わせるように、悠然と勇ましく立っている。伊達政宗といえば独眼流で有名だが、今、正美が見上げている銅像は、両目をしっかり見開いていた。それはどこか遠く未来を見据えているようにも見えた。

正美はここから見えるはずのハピネスを探した。そして、オレンジ色の西洋瓦の屋根を見つけた。こうして改めて見てみれば、あまりに小さな存在である。東北随一の大都市、仙台の街に埋もれてしまっても、誰にも気付かれないであろう。その程度の存在にしか見えない。

それで良い。それで良いんだ。これから始まる、ここから始める、どんなに小さくとも、そのハピネスを蘇生させて見せる。新しい歴史を築いてみせる。そう固く自分自身に誓っていた。その日仙台は、新年を愛でるように真っ青に透き通るような空が、果てしない彼方を思わせた。

 

年末年始の休暇も最終の一月三日の昼下がり。さすがに休み疲れを感じながら、リビングで横になっていると、玄関先で人の声が聞こえた。この時、引っ越したばかりで分からなかったが、インターホンが壊れていることに気付いた。正美は横になったまま出ようとしなかったが、正月の間に溜まったゴミを片付けていた礼子が応対してくれていた。少し経って、その礼子がゴム手袋を外しながらリビングに入ってきた。

「正美さん、お客さんです!清水さん・・ハピネスの。お父さんのようです」

正美は驚いて、テレビのスイッチを切って立ち上がっていた。

「清水のお父さん・・とにかく上がって貰おう!礼子、悪いけどコーヒーでも入れてくれないか?」

「分かりました。こちらでいいですか?」

「いやっ、応接に案内してくれるか、俺、着替えたいから・・」

用件の察しは付いていた。正美は、どういう話になるのか?どう対応したら良いのか?寝室のクローゼットの鏡の中の自分に話しかけるように見ていた。ここは、しっかりと落ち着いて!と言い聞かせながら、

「あぁ清水さんですか、竹岡です。明けましておめでとう・ご・ざ・います」

勢いよく応接室のドアを開けると同時に、ぎこちなく挨拶をした。だが、その応接のイスに人が居ない。「瞬間、あれっ」と思ったが、よく見ればイスの横で正座をして待っていた。正美は目を丸くして、

「清水さん?清水君のお父さんですか? そんなところで、どう」

すると、床に頭を打ち付けるように、

「本当に申し訳ありませんでした!私がだらしないばっかりに・・ご迷惑を・・ご迷惑をおかけいたしました! この通りです、どうかお許しください!」

正美は目を益々大きく丸くしていた。勿論、その理由は察した通りである事は確信できた。それにしても・・・

「とっ、とにかく、どうぞお座りください!清水さん、頭を上げてください。落ち着いて話しましょう。」

そこへ、礼子がコーヒーを持って入ってきた。全く何も聞かされていなかった礼子は、何が起きたのかと、しばらく立ったまま、その様子を見ていた。少ししてから、持ってきたコーヒーを正美に渡して、清水に近寄り優しく肩に手をやって、

「どうぞ、お顔を上げてください。清水さん、どうか、お顔を・・」

清水は、ゆっくり顔を上げ、また深々と二度三度、頭を下げてから、恐る恐るイスに座った。正美は、礼子に代わってコーヒーを出し、礼子は、気になって何度も振り返りながら部屋を出て行った。

「一昨日、麻子さんから聞きました・・康介が、康介が本当に大変なことを・・今日は、全額ではありませんが、半分、半分の五百万だけ・・本当に申し訳ありません!竹岡さん、どうか、もうしばらく待ってください!必ず、必ず・・」

文男は本当に知らなかった。この正月に康介家族が実家に顔を出さなかったことから、状況が分かったのである。二ヶ月以上の間、何も聞かされていなかった文男は愕然とした。

文男は、小脇に抱えていた紙袋をテーブルの上を滑らすように置いた。この時正美は、事件が発覚したときの荒木支配人の言葉を思い出していた。

『清水は、誰にも打ち明けられずに、追い詰められてしまったのかもしれません。それが理由で事実ならば、彼も苦しんだと思います。たった一人で、可愛そうに・・私の責任でもあります!』そうだ、そうなんだ・・正美は力を入れてハッキリと言った。

「私の責任です! 私の!」

両手をひざに乗せ固まっていた清水は、その言葉に何度も首を振っていた。

「お父さん、このお金は受け取れません!清水は必ず帰ってきます!今回の件は、私の問題です。今は、お金のことよりも彼の行方が心配です・・でも、きっとどこかで彼は・・・大丈夫です!」

「竹岡さんっ、康介は私、私のせいでこんな事に・・」

「分かっています! 事情は麻子さんから・・そう云う奴なんです清水はっ。」

どこでどう工面してきたか知らないが、それを思うと正美は最後まで頑なに受け取りを固辞し続けた。それには、さすがに根負けした清水だったが、それでよしとは出来ずに、「また後日」ということで、出直すしかなかった。

清水が帰った後、正美は礼子に詳しく説明をした。そして、アンビシャスとの契約もこの機会にと、時間をかけて話していた。

するとなぜか、礼子は清水のことよりもアンビシャスに強い興味を示し、正美もそれに付き合うように、二度のカウンセリングを丁寧に、復習するように話した。結果的には、このことを切っ掛けにして二時間以上、夫婦の会話が出来たのだった。

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