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運命の星 (一)

運命の星  (一)

原付バイクの音が、枕の奥から聞こえ近づいてくる。静寂な早朝の住宅街。郵便ポストを開く音と共に、今度はエンジンを噴かしながら遠ざかってゆく。夢と現実の狭間のような意識の中でのこと。そしてまた、虚ろ虚ろ、眠入ってしまった。

 昨夜は、いつになく飲みすぎて深夜の帰宅になってしまった。いや、深夜であったような微かな記憶があるだけで、確かではない。最近は、酒の量も極力控えている。ただ酒の回りは早い。そして、早いだけでは済まず、酔いつぶれてしまうこともしばしばある。

 昨日も、仕事のストレスと疲れを癒そうと飲んだはずの酒が抜けず、ベッドに埋もれた体が鉛のように重い。それでも、霞みかかった意識の中で、今日の出張予定を思い出していた。すると、いつの頃からか、枕元に携帯電話を置く癖がついていた、そのアラームが鳴り始めた。念のため、昨日の仕事終わりに、午前六時五十分にセットして置いたアラームだった。夕べの不摂生で頭痛がするせいか、今日は普段よりアラームのボリュームが大きく、耳鳴りのように響いて感じた。それでも、ベッドに縛り付けられているかのような体は動かず、片手で携帯を探り当て、無造作にそのアラームを消した。更に五分後、二度目のアラームがなりだしたのだが、この正確に機能する携帯に一瞬腹が立った。そして、この時初めて意識の中で今日と明日、あさってと続くタイムスケジュール表を天井に謄写するように見つめた。

 それでもまだ、体は起き出そうとはしない。なんとか、片手で投げやるように布団を剥いではみたがそれまでだ。もう、かれこれ二十分は経っている。八時には自宅を出なければ、予定の新幹線には間に合わない。次第に意識が鮮明になってくると、ドア越しに女房の礼子が子供たちを急かす、雄叫びのような声が聞こえてくる。ようやくというか、反射的にというか、その声に反応して、跳び箱を超える勢いでベッドから跳ね起きた。

 

 竹岡正美 四十二歳。一九六七年四月生まれ。家族は妻の礼子 四十二歳と長男の英一 十五歳・中学三年生、長女の雄子 十三歳・中学一年生、そして、二男の英俊 十歳・小学校四年生の五人家族である。

 十六年前、礼子との結婚を期に家業である結婚式場に入った。それまでは、東京の社員五十人程の会社でサラリーマンをしていた。

大学三年の秋、正美は、なんとなくの流れというか、成り行きだけで就職の面接を繰り返した。いわゆる就活である。定かではないが、面接先は十社を超えていた。ただ、何故か大企業には魅力を感じていなかった正美は、自然と中小企業が手帳のリストのほとんどであった。

 そうして繰り返す面接の中で、気が付いたことが一つだけあった。それは、面接先の担当幹部に気に入られたい一心で、その場その相手に合わせた自分をつくっていたことだった。云ってみれば、行く先々の会社によって、自分を変えていたのだ。

 彼をよく知る人間であれば可笑しくなってしまうほど、その時々の自分を見事に演じ分けていた。将来の夢も希望も面接の度に変わる。営業系の会社では素直さを演じ、幹部候補と聞けば強さを装ってみた。サービス関連の企業では物腰をソフトに優しさを演出した口調で受け答えして見せた。おかげで、即決で採用を約束してくれた会社も数社あった。その他にも、何社かの内定をもらえた。後日、その内定通知書をアパートの部屋のテーブルに並べ、ど・れ・に・し・よ・う・か・な?などと、お気楽にトランプを引き当てるように選んだのだ。

 実際は、迷惑な話だ。否、全く失礼なことでもある。ただ、その時点では、自分自身というものは存在しなかった。自分であって自分ではない。本当の自分がどんなもので、どこに行きたいのかなど、本気で考えたこともなかった。内心では、いずれ実家の結婚式場を継がなくてはならないのだからと考えていた。俗に言う腰掛就職だった。

 事実、同級生の多くもまた、就職内定の数を自慢げに話したり、会社のサイズや扱っている製品を知ったかぶりで話す者、中には会社のことも仕事の内容もよくよく知らずに、有名企業というだけで決めたやつも多くいた。それでも、何の不思議も疑問も持たなかった。

 それからというもの、残された学生生活を楽しむのは今だ、とばかりに遊びまくった。恒例の卒業旅行にも、一度ならず二度行った。とはいえ、成人を過ぎ分別の付く年齢になっているはずが、勝手気ままの生活からは抜け出せない。何の不安も感じずに振舞える我が身が、どれほど恵まれているかなどと思ったこともないし、その家の経済事情などを察するようなこともない。私立の大学の授業料に加え、一年生の時からずっとアパート暮らしをさせてもらっている。その年間に掛かる経済負担など全く眼中にない。それでいて、大学で専攻しているのが経済学部と聞けば、きっと噴出してしまうだろう。絵に書いた馬鹿息子ならぬ、おめでたい駄目息子であった。

 実は、その学生生活をエンジョイしているときに、大学交流の名目で行った合コンで、礼子とは知り合った。九州出身の彼女は、無口であまりでしゃばらない。だから、決して目立つ存在ではなかったが、お酒の追加注文やテーブルの上をいつも気遣いながら、ホスト役に徹していた。その時は、それが健気に映った。そうして、気になりだすと益々素敵に輝いて見えてきた。幸いなことに、そんなに目立たない彼女だから、周りの友達も意識していないようだった。

 五対五の合コンも二時間を過ぎようとしていた頃には、向かい合わせに座っていた正美と礼子の二人だけの世界に入っていた。勿論、合コン終了後の待ち合わせもしていた。それをきっかけに、二人の関係は若いエネルギーと好奇心で、急速に接近して行った。

半年後、二人は正美のアパートで、半ば同棲生活を送るようになった。ただし、この時まだ九州は熊本の女性本来の姿を知らなかった。というよりも、熊本女は、肥後猛婦といわれる“熱く、頑固でパワフル”である本質を見抜けなかった。“あばたもえくぼ”という言葉があるが、恋する者の盲点かと、後に身に染みて感じるのであった。

 

 礼子の実家は、地元で手広く事業を展開していることもあって、話が良く合った。とは言え、事業経営そのものではなく、事業家の家庭生活のあれこれが、その殆どで、小学校の参観日はいつも祖母が変わりに来るか欠席といった、当時の不満を口にすれば、「私も一緒よ!」と察してくれた。また、夫婦でもめている時の殆どが、会社経営のあれこれだったり、子供ながらに、大変な様を否応なく見せ付けられた出来事などになれば、「どこも一緒ね!」と言って、益々親近感を覚えた。そんな二人の関係は、日増しに深まっていった。

 そうして、付き合いだしてから、五年。卒業後、それぞれに就職し、ハッキリとした働く意義も目的も持たないままに、惰性の仕事を続けていた。

 そんな二人は、自然に、そして現実的に結婚を意識するようになっていた。正美は何度か礼子に連れられ、九州の実家にも遊びに行っていた。礼子もまた、東北は仙台にある正美の実家のご両親に気に入られ、会うたびに、それとはなしに結婚を迫られていた。正美のご両親は、それこそ結婚式場をされているだけあって、まるで一人のお客さんを相手にするように、親切丁寧に接してくれた。なにより、苦労の末に築き上げてきた、この結婚式場で息子の式を挙げられることを心待ちに、それはそれは楽しみにしていた。

 そんな両親の思いとは別に、正美は無目的のまま続けてきた惰性の仕事に、正直飽きていた。なにより、二人の夫婦同然の生活にも、新鮮さが失われ口喧嘩の回数が増えていた。その口論の末の決まり文句は、

「これから、一体どうするの?このままで良いの?」

「そんなこと分かっている!俺だって考えている!」

そう繰り返すだけだった。

 ある日、仕事帰りの正美が、一軒の小さなレストランを通りかかった時だった。花束を抱えた若い二人が店から出てきた。帰り道なので、そのまま近付くように歩いてゆくと、その後から二人を追い立てるように、今度は友人と見られる男女数人が、大声で叫びながら店の前に集まってきた。すぐ傍まで来たときにはもう、狭い歩道一杯にその輪は広がり、正美は立ち止まるしかなくなった。退屈な家へ帰えるだけの正美に、先を急ぐ理由もない。偶然出くわした、この出来事に少し興味がわき、なんとなく、その騒がしい一団を見聞きしていた。目に付いたのは、日常の街には不釣り合いなロング丈のドレスに金ぴかのバックを抱えた一人の女性。勢いよく拍手をしながら、「本当におめでとう!お幸せに!」といいながら、抱えきれないほどの花束を持つ彼女の背中をポンと押した。

一方では、真っ赤なリボンが掛かった大きな包みを、羽交い絞めのようにして持つ男性を囲み、「うらやましいよな!お前たちを見ていると、俺もあせっちゃうよ!」と、小さく足蹴りをしている。そんな彼も、どう見ても着慣れないフォーマル・ウェアだ。

瞬間的に察しは付いていたが、間違いなく結婚式を済ませた友人達であると、正美は内心で頷きながら、思わずその輪の中に自分も入っているような気になってしまった。見ず知らずではあるが、胸の内で“おめでとう”と言いながら、歩道を諦めて、車道に下り、一団を回り込むように家路についた。

正美は通り過ぎざまに見た、新婦と思われる女性の、満開の桜花のような笑顔に、瞬間、どこか心苦しさを感じた。この時、礼子との生活に空虚感のようなものを感じていた正美の内面が、急に罪悪感に変わってゆくのがハッキリわかった。実際、同棲して五年になる。結婚を意識していないわけではない。結婚する意味がわからないのだ。だから決して自分勝手だとは思って居なかったが、ここしばらく礼子の笑顔を見ていないような気がした。

もしかしたら、自分が礼子から、その笑顔を奪っているのではないか?そんなことを考えながら、駅から約一キロ、まるで夢遊病者のように気の抜けた弱々しい足取りで、ようやく自宅アパートに着いた。だが正美は、そのまま直ぐには中に入れないでいた。六世帯が入る民間のアパートの一階:一〇三号室。その玄関照明だけが、球切れ間近のシグナルのように点滅していた。それはまるで、二人の関係を案じているかのようでもあった。

ふっと目に止まったのは、ドアポストから折り曲がって落ちそうになっている新聞だった。確かに部屋の灯りは点いている。当然、礼子が先に帰ってきているはずだ。これだけでも、生活に活気がないことが分かる。正美は、今にも切れそうに点滅している電球に目をやりながら、その先の遠くを思い見つめていた。

僅か数分ではあったが、とてつもなく長く感じた。そして、腕時計を見れば午後十時を過ぎていた。三月のこの時期、夜はまだまだ冷える。その寒さに我を取り戻した正美は、何か意を決したように、ドアノブを力いっぱい握り締め、大きく開け放った。

そして、

「仙台に帰るぞ!」

第一声は、“ただいま!”でもなければ、“今帰ったよ!”でもなかった。どちらかと言えば、神経質で几帳面な性格の正美だが、この日は革靴を脱ぎ捨て、片方がドアに挟まってしまった。そんなこともお構いなしに、勢い礼子が待つリビングに駆け寄った。

お気に入りのテレビドラマを見ていた礼子は、慌ててテーブルに置いてあったリモコンでテレビのスイッチを切った。全く気のない惰性の生活空間を切り裂いた、突然の侵入者の叫び。

「驚かせないでよ。どうしたの?」

ここのところの礼子は、あまり化粧も気にせず、女性としての喜びを放棄しているかのように、オシャレにも興味がない風で、一気に老けて見えた。ハッキリ言って、色気も感じない。そのスッピンに近い素顔は表情として分かりやすく、明らかに迷惑そうだった。唯一、テレビドラマの中に自分を重ね見ることで、ストレスを発散させようとしていた。それが、あっという間に現実に引き戻されたのである。

「仙台に帰ろう!」

その言葉のニュアンスは、たった今、荷物をまとめろと言わんばかりだ。声のボリュームも今までに聞いたことの無い大きさだ。靴が挟まって半開きのドアから、その声は外に居てもハッキリと聞こえる程だ。

礼子は怪訝そうな顔を隠そうともせずに立ち上がり、興奮気味の正美を振り返りながらキッチンに向かった。すると、母親に何か“おねだり”をする子供のように、正美が礼子の後に付いて行く。益々不愉快になってきた礼子は、聞こえたってかまわない、でも聞こえないように舌打ちしながら、コーヒーを入れ始めた。帰って直ぐ、コーヒーを飲もうと準備しておいたドリップ式のフィルターに、目分量で無造作にコーヒーを放り込み、勢い良くお湯を注いだ!そのちょっと乱暴な一つ一つの仕草は、彼女の無言のメッセージだった。

ただ、肝心の正美の目には何も映っていなかった。礼子を気にすることよりも、自分の事を察して欲しいという思いで、益々トーンが上がってゆく。

「実家に帰るんだよ」

俄かに脅迫じみてきた正美のテンションに、コーヒーカップを両手に持ちながら、

「急に、どうしたと?」と、思わず方言で返した。

「なにがあったとね?」

礼子は、コーヒーをテーブルに置きながら、まだ立ったままの正美を、少し睨みつけるように言った。その瞳の奥には、唐突ということだけでなく、強引で自分勝手で我侭な言い分を承知できない不満で、軽蔑する一人の男として映っていた。

「あなたは、私のことを何も考えていないのね」

「考えているさ、だから仙台に帰ろうと言ってるんだ」

「それはあなたの都合でしょう、あなただけの思いでしょう。何があったか知らないけど」

抑えていた思いが、自然と言葉になって出てきた。

「私は、あなたの言い成りで、都合の良い人間ではありません」

礼子は力の入った視線を意識的に正美から逸らすと、玄関のドアが半開きになっているのが目に入った。少しの沈黙と、この場の雰囲気を嫌って、無言のままソファーから立ち上がり、挟まっていた革靴を取り、そっと並べた。このまま外の空気を思い切り吸って、自分自身を落ち着かせたいとも思ったが、この機会を逃さず、本気で話をしよう。そう自分に言い聞かせながら、またリビングのソファーに付いた。

目の前に戻ってきた礼子に正美が、

『俺な~』といって、たった今、帰り道で偶然出くわした出来事を話し始めた。

回転の速い礼子は、話を途中で遮り

「それが自分勝手って言ってるの!」

その迫力は、正美を黙らすのに充分だった。

「それはあなたの一方的な思いで、私を見ているだけなのよ!私のことを、私の思いになっては考えていない!」

そう言いながら、押さえ切れない思いと一緒に、瞳を濡らすものが溢れ出てきた。その潤んだ瞳に映る正美は、全く予想していなかった展開に驚いた表情で、頭を抱えていた。

ここでようやく、正美も平静を取り戻そうと首を振りながら、小さく呟いた。

「これは俺のことではない!俺が考えていた礼子でもない!」と。

更に言葉にならない思いが、正美の中を駆け巡っていた。

・・・『礼子自身の思いを、礼子の本心を、礼子の考えを聞かなければ!』

そう思ってはみても、この空気を変えるだけの気転が回らなかった。

嫌な沈黙が続いた。せっかく入れたコーヒーも冷めて、コーヒーの香りだけが部屋の中を漂っていた。身の置き場に困った正美は、そのまま床に座り、持っていた鞄から何かを取り出した。A-4サイズの白い封筒。その宛名は、大きな筆字で竹岡正美様と書いてある。よく見れば、封筒の角は折れ、汚れて擦り切れそうになっている。正美はそっと中身を取り出した。何かのパンフレットのようなものを開き、そこに挟んであった四つ折の便箋を手に取り、うな垂れるようにジッと見ていた。

礼子はその様子を、上目使いに伺っている。そして、正美が床に置いた資料に目をやると、それは正美の実家が経営する結婚式場のパンフレットだった。それも、まるで使い古しのように、シワだらけで、何かを溢したようなシミまで付いている。礼子は、何も気付かない振りをして、コーヒーカップに手を伸ばし、そのカップを口まで運ぶ僅かな中で察しは付いた。と次の瞬間、たった今、正美に言い放った言葉を思い出した。するとまた、涙腺が大きく緩んでしまった。

・・・『私も、正美のことを、正美の思いになって考えてはいなかった。そればかりか、自分では、どうしてよいか分からず、いつか正美の方から切り出してくれるのを待っていた。にもかかわらず、我侭・自分勝手はどっちか?』

今度は礼子が、どうしてよいか分からなくなった。正美の話を真剣に聞こうともせずに、話は途中で折ってしまい、この気まずい空気を作ってしまったのは、私自身だということを、大いに悔やんだ。すると益々大粒になる涙がコーヒーカップの中で、いくつもの波紋をつくった。

しばらく礼子の笑顔を見てない正美だったが、ここまで声を詰まらせながら泣きじゃくる礼子も初めてだった。もう言葉にならなかった。

ようやく、正美は着ていた背広を脱ぎ、そ~っと立ち上がり、クローゼットのハンガーに掛けた。それでもまだ、どうしてよいか分からない正美は、キッチンに行きポットに水を入れ、コーヒーの準備をした。とっくに冷め切ってしまっていたので、コーヒーの大好きな正美には、それが自然な欲求でもあった。

 

二人はこの後、時間を忘れて話し合った。付き合ってはじめて本心から話した。お互いに、本当の心を知り一緒に泣いた。勝手な思い過ごしが分かり、笑い転げることもあった。

そして、カーテンの隙間から明かりが差し込んでくる頃には、仙台へ行くこと、否、生涯のパートナーとなることを約束したのだ。

 

その年の秋、正美と礼子は仙台市内の正美の両親が経営する結婚式場で式を挙げた。今か今かと待ち望んでいた正美の両親の喜びようは、この式と披露宴に現れていた。大盤振る舞いと言うか、結婚式のデモンストレーションのように華やかなものだった。礼子のご両親や親族、そして友人も、遠く九州・熊本から大勢駆けつけた。

こうして二人は、実に多くの列席者に見守られながら、新たな人生の船出をしたのだった。(・・・続く)

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