運命の星 (二)

今では、十五を頭に三人の子供に恵まれていた。そして、益々“母は強し”しかも、“肥後もっこす”全開の礼子が、家庭の一切を仕切っていた。今日も、事前にセットして置いた携帯電話のアラームではなく、その礼子の雄たけびで、慌てて飛び起きた正美は、勢いタンスの角に足をぶつけ、声も出ないほどの痛さにうずくまってしまった。この激痛は、眠気と二日酔いの頭痛を一変に消し去ってくれた。
時間に余裕のない正美は、その痛みに耐えながら、パジャマをベッドの上に脱ぎ捨て、靴下だけを履き、そのまま浴室の洗面台へ、ぶつけた足をかばいながら小走りに向かった。そして、歯を磨き、顔を荒い、髪を整えながら鏡の中の自分をジッと見つめた。これは、毎朝訪れる空白の時間なのだ。精神統一とでも言おうか?彼の習慣でもある。だが、礼子が子供たちを学校に追い立てる叫び声で、また現実に引き戻された。
急ぎスーツを着込んでリビングへ行くと、既に子供たちが学校へ出て行った後だった。まるで嵐が去った後の静けさのようだ。誰も見ていないテレビからは、今日の天気予報が流れていた。その奥のキッチンでは、子供たちの朝食の洗い物をする礼子がいた。礼子にとって、朝の戦いは終わっていなかった。まだ厄介者が残っていたのだ。
「今日は早いのね!」
決して不機嫌なわけではない。ただ、一言に含みを持たせたような言い方になってしまうのだ。食器を洗う手は休めず、
「食事は・・・? コーヒーにする?」
礼子は、仕事柄、正美の不規則な生活に理解はしながらも、できれば朝食だけでも、子供たちと一緒にして欲しいと思っていた。それは何度か正美に懇願したが叶わないでいる。そんな腑に落ちない思いが、この素っ気無い一言となってしまうのだ。
そのことを感じていないわけではない。そのほうが良いのも分かっていながら、正美は生活を正せない自分を正当化しようと、決してリズムを変えようとしない。いつの頃からか二人の間には、こうした思いのすれ違いが起きていた。
「コーヒー!」と言って、タバコに火をつけソファーに腰を下ろし、テレビの週間天気予報を確認しながら、スケジュールを思い考えていると、無言でテーブルにコーヒーが置かれた。そのコーヒーを一口飲む正美の顔がゆがんだ。『ぬるい!』と言いそうになったが、そのままカップを置き、時間がない振りをして、逃げ出すように家を出た。
車の中で、今日から三日間の出張であることを伝えていなかったことを思い出したが、電話をかける気にはなれなかった。それよりも、一切無関心な礼子に対する不満で、いつも以上に運転が荒くなっていた。
駅まで約十五分、近くの、いつもの駐車場に車を止め、出張用のバッグから、事前に購入していた新幹線の指定席チケットを取り出し、時間を確認したが、定刻にはまだ三十分以上ある。正美は、そのまま駅構内にあるお気に入りのコーヒーショップに入り、好きなコーヒーを飲みなおした。ほろ苦いコーヒーとタバコをふかしながら、精一杯、仕事モードに切り替えようとした。
ようやくモーニングコーヒーにありつき、落ち着いたところで、またバックから別のチケットを取り出した。それは、今日の午後一時から東京で行われるセミナーのチケットだった。実は、取引先の中でも懇意にしている社長から進められたセミナーに出席する予定になっている。
だが、正美にとって、このセミナーは大義名分に過ぎなかった。ここのところの業績不振で、現場に張り付き、毎日毎日が息詰まる思いでいたところでの誘いに、正直ありがたいと思った。本音では、セミナーに全く期待はしていない。それよりも、良い息抜きが出来ると考えていた。実際、セミナーだけならば日帰りで充分だ。それを、二泊三日のスケジュールを立て、ホテルも手配していた。それも、セミナー会場は東京でも有名な赤坂のホテルであるにもかかわらず、わざわざ遠く離れた新宿のホテルだった。日常から開放され、現実から逃れられる。自分だけの時間ができる。そんな思いで、久しぶりに正美は浮ついていた。
結婚と同時に後継者として働き始めて十六年。スタッフ八十名を越える組織№2の専務になっていた正美ではあったが、これまで特別な経営の勉強などして来なかった。唯一、父親であり社長でもある武夫の後ろ姿が手本であった。さらに、二年前に卒業した地元の青年会議所のメンバーとのふれ合いから知り得たことと、独学的に学んだ業界情報とをあわせて、実践のノウハウにしてきた。
この青年会議所の仲間や業界の間では、“コンサルタント”と言う存在自体、極めて評判が悪かった。その悪評を知りつつも、熱心な紹介者だけを信じ、これまで名前すら聴いたこともない、全くの無名で得体の知れない経営コンサルタントが主催するセミナーに出席することを、どこか自分でも、不思議に感じていた。
正美は、コーヒーを飲み干し、タバコの火をもみ消しながら、片手でバックを持ち店を後にした。そして、改札を入り、エスカレータを使ってホームにあがると、予定通り到着した新幹線の指定車両に乗り込んだ。
座席番号を確認し、荷物を棚に置き、上着をかけ席に座った。が、どうも気になるセミナーのパンフレットを取ろうと、また棚からバックを下ろした。そして、取り出した封筒の中にはパンフレットと一緒に、手紙が入っていることに気が付いた。それは、紹介者である、取引先の社長からのものだった。
この時、正美の中の取引先は、「取引をしてやっている!主体は自分で取引業者は従者である!」と考えていた。だから、良い機会に大義名分ができ有り難いという思いとは別に、「そんなに言うなら出席してやる!」と、上から見ていたため、今日の今まで封筒の中を良く確認しないでいた。
あらためて、その手紙を手に取り見てみれば、便箋3枚にも亘って書き綴られていることに驚いた。さらに、その内容に二度驚いた。そこには、淡々と、そして、熱意溢れた思いが迫ってくるような内容であった。
たんなる一業者に過ぎず、そんなに大きく立派な会社でもない。まして、経営事態が、潤沢で順調でもないはずだが、自分のこと以上に、取引を通して感じ思うことを、切々と訴えるように書いてある。
正美は何故、ここまで心配してくれるのか?と、その内容を何度も繰り返し読んでいた。「余計なお世話だ!要らぬ心配だ!」という、どこか偉ぶる感情も瞬間あったが、滔々と訴え迫ってくるその文面に、次第に心が熱くなってくる自分を感じていた。とともに、今になって思い出してきた。紹介パンフレットを持ってきてくれたときの社長の真剣な表情を・・・。
ようやく正美が、新幹線の車窓を眺めた時には、既に一時間が過ぎ、車内アナウンスは、大宮駅到着を告げていた。もう二十分ほどで東京に着くことを知り、再度セミナー会場の場所を確認した。
大学時代に東京で過ごしたとはいえ、ずいぶん昔のことだ。少し不安が過ぎったが、東京駅からの乗換えを頭の中でシュミレーションができたことで、あらためて、席に深く座りなおした。リクライニングさせ、ふっと目を閉じると、昨夜の不摂生が頭痛となって襲ってきた。無意識に、ワイシャツの胸ポケットに入ったタバコに手を伸ばしたが、全席禁煙であることを思い出し我慢した。
こうして、席にもたれながら、閉じたまぶたのスクリーンには、一ヶ月前に出来上がってきた「決算書」が映し出された。瞬間的に、首を二・三度振り、その生々しい映像を消し去ろうとしたが、反対に、よりズームアップされてしまった。どんなに繕い隠そうとも、自分自身だけは騙せない。忘れたい、忘れようにも詮無いこと、その現実は変え難く避けがたい。まぶたに映る決算内容と手紙の一言一言が交差する。勢い良く何度も小首を振るのだが、意地悪されているように、益々鮮明になるばかりだった。正美は、セミナーのチケットをキツく握り締めながら、微かな期待を、この時始めて抱いた。
時計が午前十時を少し回ったころ、列車は東京駅二十一番ホームに着いていた。が、眠り込んでいるように正美は、まぶたに写る映像と対峙して離れなかった。それは清掃員に呼び起こされるまで続いた。そして、見たくない映像は一気にスイッチを切られたように消えた。
東京駅に着いた正美は、セミナー会場である赤坂のホテルへ向かい地下鉄に乗り継いだ。
そのころ、正美をこのセミナーに誘った、安西物産の社長である、安西雄一がホテルの玄関脇に設置されていた喫煙所でタバコを旨そうに吸いながら、何度も腕時計を見ていた。
それにしても今日の東京は快晴だった。気温もぐんぐん上がり日差しが邪魔に思えてしまうほどだ。そんな直射日光を遮ってくれている大きな桜の木も、その時を待っているかのように、数え切れない蕾で一際大きく見える。
安西は、背広の内ポケットから手帳を取り出し、パンフレットから抜き書きしておいた今日一日のスケジュールを確認した。そして改めて、時間を確認した。もう直ぐ十一時半。正美との待ち合わせの時間だ。
安西にとって、正美が専務を務めるブライダルステージ・ハピネスは、一番のお得意先だ。今からちょうど二十年前、会社設立と同時に、取引が始まった。事業内容は飲食店向けの総合食品卸で、まさに第一号の納入先となったのだ。
当時、まだ三十になったばかりの安西が、飛び込みで営業に行った先が、ハピネスの前身、結婚式場・高砂殿だった。それは、若さという勢いだけの営業だったが、創業の大変さを知っていた高砂殿社長の竹岡武夫に気に入られ、以来、家族ぐるみでのお付き合いが始まった。事実、現在の取引実態で言えば、全納入業者中、一・二の額になっている。それ以上に、安西物産の売上の約三十%を占めるまでになっている。つまり、ハピネスの業績は、そのまま安西物産にも反映されていた。それゆえに、嫌でも取引金額で、売上が推測できた。
親しくさせてもらっているとは言え、経営の内実までは知らされていない。が、大いに察しは付いた。それは、納入部署の調理場とは、より親密な関係を築いていたからだ。中でも、調理長との関係は、特別なものであった。そんなことで、聞きたい情報があれば、いつでも入手できたのだ。
だが、この二十年の間に、調理長をはじめ、調理スタッフの入れ替わりは実に激しかった。今現在の調理長も、まだ二年足らず。そうして変わる度に、安西自らが現場に足を運んだ。というよりも、取引の条件を確認しに行っていたのだった。
安西は創業から僅かな期間に、この業界と言うか、調理場の世界特有というか、暗黙のルールがあることを知った。そして、このルールを無視しては、やって行けないと信じて疑わなかった。実際、今までに何度か、なんの前触れもなく新しい業者が入り、納品数が半分以下になるといった苦い経験をしてきた。そのルールとは、いわゆる『賄賂』『袖の下』であった。当然、そのことは充分承知していたし、安西自身、ほとんどの取引先の開拓は、全く同じく、「袖の下」を競い勝ち広げてきた。つまり、ちょっとした油断で、直ぐになびかれてしまうのが、この世界だった。
十日と空けずに夜はネオン街への招待。二、三軒のクラブやバーを接待用の店として、日替わりで案内する。時には、一日でその三件をはしごし、それでも足りずに、飛び込みの店でぼったくられるといった事もしばしばあった。そんな経験から後日、接待用の店の新規開拓をし、今では、事情を理解してくれ、ツケの利く店が十件ほどになっている。この月末の請求は、帰りのタクシー代を含めて、多い月で五十~六十万になる。安西自身も嫌いではない夜の世界だが、この時ばかりは気持ちよく酔えなかった。そして、自分が情けなくなり、最近では、営業用の作り笑顔を忘れてしまうことも多くなっていた。
また、平日の昼は、一方的な電話でゴルフに誘われることも、多い月で二度・三度あった。勿論、一応は誘われるのだが、これも接待である。それは、予約の急なキャンセルなどで、仕事に突然の空きが出たときなどに多い。電話の雰囲気と言うかニュアンスのなかに、断れないだろう!といった圧力も一緒にかけてくる。実際そうだ。買ってやっている側と、買ってもらっている側の力関係は、実にハッキリしている。立場が弱い。弱いことを自覚すればするほど、臆病になってしまう。反対に、臆病になっているのを知れば知るほど、強気に出てくる。まさに、虐げられているようなものだ。
またある時は、マージャンの穴埋めメンバーとして呼び付けられる事もあった。さらに、現金でのお手当ても定期的である。時に、その引き上げの為に、あえて抜き打ちのように、別の業者を当てつけることもある。
ただ、ここに来て、家族ぐるみで付き合ってくださる、竹岡社長に対し、こんな事で本当にいいのか?という、今までに無い意識が確実に芽生えてきていた。実は、安西の同業者であり同級生でもある、大英食品の大隈真一から紹介された、経営コンサルタントに付いて、学び始めて一年になる。
現場・現場で、がむしゃらに必死に生きて来ただけの安西にとって、経営学的な理論も当初は新鮮であった。だが半年が過ぎ、内容が難しくなってくると、毎月の勉強が苦しくなってきた。それは、学べば学ぶほど、聞けば聞くほどに、自分が信じてやってきた経営そのものを否定されているような気がしてならない。確かに、自分がやってきた全てが正しいとは思っていない。仮に間違いはあったにしても、それなりに必死で生きてきたことだけは、否定されたくはなかった。当然、強い反発が自分の中の感情として騒ぎ出していた。
やりきれない思いで、日増しに苦しくなってくる一方で、なぜだか、不思議な安堵感を覚えてもいた。それは自分自身でも不思議でならなかった。ただ、それが何故なのかは分からない。
調理場の世界、その長年の慣習と言い、業界の常識と言っても、決して正しいとはいえない行為である。それでも一切悪びれることがないほど、常態化していた。それどころか現場は、もしバレて、咎められようものならば、いつでも辞めてやる。といった一種、脅しのような空気を作っている始末。そして、なによりも、安西も自社の担当会計士と相談しながら、賄賂を捻出するための、あらゆる方策をとっていた。これも正確には不正を行っていることになる。
それらを今までは、業界の・・・、この世界の・・・、と言ってごまかして来たが、改めて、決着を付けられるかもしれないと感じていた。
安西のこれまでは、正しいか誤っているかよりも、売れるか売れないか、儲かるか損するかが、すべての判断基準であった。つまり、理論や理屈で経営は出来ないと考えてきた。しかし、今現在、安西自身が苦しみ悩ませられているものは、「本当にこれでよいのか?」という、利害損得という判断基準だけでは、収まりが付かず、それ以前の問題のように思えてならなかった。
今年で、創業二〇年になる。何とかここまではやって来た。そして、その節目のタイミングで親友の大隈が経営の勉強を進めてくれた。これは、どうしても何か大きな流れのようなものを感じずにはいられなかった。
同時に、安西の胸の内では、自分自身の問題だけでは済まないという、責任を強く感じながら、急を要するとも考えていた。それは、この二十年間お世話になってきた、ハピネスの実態を、本気で憂いてのことであった。
ここのところの業績は、個人的なネットワークを駆使して確認するまでもなく、急激に悪化している。そこに、今回のセミナー開催を知った安西は、いち早く電話でセミナーの案内パンフレットを取り寄せ、その内容を確認したうえで、正美宛に思いの丈を書いた手紙を添えて手渡したのだ。
待ち合わせ予定時間五分前を腕時計で確認した安西は、二本目のタバコに火を付け、深呼吸するように、春の空気と共に大きく吸い込んだ。そして吐かれたタバコの煙が、穏やかな風に、ゆっくりと広がり流されてゆく。無意識にその煙を目で追いかけると、そこに正美が、「安西社長~っ」といって、軽く手を振りながら急ぎ足で近付いてくる姿が、シルエットとなって見えた。
「どうも、どうも、待たせてしまったかな?」
と言いながら、自然と安西に手を差し出していた。
「いいえ、ちょっと前に着いたばかりで、一服つけていたところです」
と、安西は少し戸惑いながら、その手に応じて軽く握手を交わした。正美は、ひと息つこうと、鞄を足元に置き、新幹線の中では我慢したタバコを、胸ポケットから取り出し火をつけた。大好きなタバコを三時間近く吸えないでいたこともあり、本当に旨そうだ。木々の間から差し込む木漏れ日に照らされ、時折まぶしそうに、灰皿の周りを移動している正美を見ていた安西の目に止まったのは、セミナーに出席するためにしては、少し大きすぎる鞄だった。安西は、気になったので聞いてみた。
「竹岡専務、今日のセミナー後のご予定は?」
一瞬迷ったような間を隠すように、正美はタバコの火をゆっくり消しながら、安西を見ることなく、灰皿に向かって言った。
「特別な用事はないけど!・・・」 次の言葉が出てこなかった。
明らかに、何かあると察した安西は、「そうですか?」といって、それ以上は止めようと思った。しかし、わざわざ遠く東京でのセミナーに誘った手前、夕食でもご馳走できたらと考えていた彼は、改めて訪ねた。
「今日は、直ぐにお帰りですか?」
「えーっ、今日は泊まる予定できました。そんなに来る機会がないから・・・学生時代の友人もいるし・・・」普段の専務からすれば、どうにもスッキリしない返事だ。もうこれ以上聞けば、いらぬ詮索をするようで気が引けた安西は、「そうですか!」と言ったきり、夕食のお誘いをしないでしまった。
安西は、正美が落ち着いたことを見計らい、また腕時計で時間を確認しながら言った。
「セミナーまで時間が少しありますので、お昼でも食べましょう!」
せめて昼食ぐらいご馳走させて欲しいといった思いが、正美にも通じたのか、間髪いれずに、「ご馳走様!」と頬を緩めて安西を見た。
二人は、セミナー会場であるホテルのレストランで昼食をとることにした。地下一階のカジュアルなお店を、事前に下調べしておいた安西の先導で、そのレストランに入ると、
「安西社長!こんにちは、ご無沙汰してます!」と、呼び止められた。
「あれ!こちらこそご無沙汰です!高木社長もお元気そうで!」
後ろについていた正美は、作り笑顔で軽く会釈して見せた。すると、今度は直ぐその奥のテーブルに座っていた、五十代と思われる女性から、
「安西社長じゃないですか!先日はお世話になりました!」と声を掛けられ、高木との挨拶もそこそこに、
「久保田専務!お元気そうですね!先日は、こちらこそありがとうございました。」
さらに、同席していた青年からも、
「社長!この間はやられましたので、近いうちにリベンジさせてください」と、安西のお尻をポンと叩いた。ここでも正美は、笑顔を作って挨拶をした。そして、案内されたテーブルに着くまでに、何人に呼び止められ挨拶したか?それはまるで、レストランを安西の友人・知人で貸切っているかのようであった。
ようやく席に着くと、正美は驚きを隠さず安西に聞いた。
「皆さん、お知り合いですか?」
「そうなんです!皆、今日のセミナー主催のコンサルタントで一緒に勉強している経営者仲間なんですよ」
嬉しそうに話す安西の表情は、さっきよりも明るくなっていた。正美は頷きながら、
「じゃー、同業者の皆さんなんですか?」
何か強い興味を感じた正美は、さらに食い付いた。が、安西はメニューを見ながら、「いいえ、・・・」と答えるだけだった。その、素っ気ない返事が気に入らなかった。正美は、テーブルの上のメニューを、取り上げるようにどかして、さらに追求した。
「皆さん親しそうだけど、どういう関係なんですか?」
東京の、ど真ん中の有名ホテルのレストラン。入るなり次々に親しく声を掛けられる。セミナーが行われるのはわかっているが、それにしても、一人二人ではない、そして、そのほとんどが友人のような接し方である。正美の中で消化できないでいた。と同時に、安西に対して、もっと詳しく教えてくれたっていいじゃないか!と言う不満も感じてきた。
「ですから、皆仲間なんですよ! 専務も一緒に勉強しませんか?」
安西は、焦らすような悪戯っぽい笑顔で、正美を見つめた。
「すみません! オーダーをお願いします」
安西は、二人の注文を済ませ、お水を旨そうに一気飲みした後、
「今日は、皆全国から集まってくるんです。たしか、五〇〇人か六〇〇人って言ってました。詳しくは分かりませんけど・・・」
「そんなに大きいセミナーなんですか?」
正美は、せいぜい一〇〇人程度のものだと思い込んで来たので、改めて驚いた。一般的なセミナーで五~六〇〇人と言うのは、あまり聞いたことがない。たいがいは、客寄せのために、有名人や著名人の講演会をスケジュールに入れるが、それでもせいぜい二~三〇〇人が良いとこだ。益々理解不能になってきた正美は、語気を強めて安西に確認した。
「全国の異業種の経営者が参加するってことなんですか?」
この一言で安西は、正美がセミナーのパンフレットを殆ど見ていないことを確認できた。もしかしたら、自分が書いた手紙も読んでくれていないのか?とも考えると、ガッカリしてしまった。
ちょうどそこへ、大隈が安西の隣の席にドッカと座ってきた。
「おォー ビックリさせるなよ! 今来たんだ?」と、目を丸くしながら、大隈の膝をポンと叩き歓迎した。
「昨日から東京に入っていて、取引先を回っていたんだ!」
「竹岡専務こんにちは~ 今日は遠いところ、本・当・に・ご苦労様です!」
大隈は、事前に安西から竹岡専務を誘うことを聞いていたので、この機会にお会いできるのを楽しみにしていた。そんな思いが、弾むようなリズムの挨拶となった。
「どうもお久しぶりです。大隅社長もセミナーに?」
正美は、今になって鞄の中のパンフレットを、慌てて探し出した。大隈と安西は、動揺を隠せないでいる正美を見て、小首を左右にかしげながら笑みを浮かべていた。
大隈は、二代目経営者で、同じ仙台を拠点として、主に温泉旅館や居酒屋など外食店に、業務用食材を卸していた。だから、ホテルや結婚式場を中心とした安西とは、同業者でありながらライバルではなかった。つまり、同業のよき相談相手でもあった。
一方、大隈と正美は、同じ二代目経営者と言うだけでなく、同じ仙台の経済界にあって、その実績と存在は、お互いに良く知っていた。
去年、創業五十周年を期に、先代から事業を継承し社長に就任した。その大隈が社長を務める大英食品は、地元では老舗の卸会社であった。仙台に本社を置き、東北全県を活動エリアとしていた。従業員一五〇人を抱えた、中堅の企業である。
宿命と言うには大げさではあるが、事業を引き継ぐことは、既成事実として認識していた大隈は、そのことに対して真剣に向き合っては来なかった。大隅家の長男として生まれ、大学卒業と同時に大英食品に入社していた彼は、何の疑いも問題意識も持たずに、エスカレーター式に重要な役職に就いてきた。そして気が付けば、五十を間近に世代交代、事業継承を現実のものとして、感じるようになった。
こうして意識が変わると突然、大きな不安に襲われることがあった。今までに味わったことの無い感覚で、恐怖すら感じるようにもなっていた。大隈が、人知れず悩んでいる時に、机の上に置き忘れていた一通のダイレクトメールを目にしたのだ。
それは、納入先である旅館の社長から頂いたものだった。しばらくそのリーフレットを見ていると、大きなタイトルが気になった。そこには、“トップリーダー・・・”“トップが変われば・・・”“哲学・信念・勇気・希望・情熱・・・”などのキャッチコピーが並んでいた。
これまでであれば、間違いなく見過ごしていたものであったが、社長就任間近の大隈の心に、それらは強いインパクトを与えた。そしてその後も、脳裏から離れなかった。そうして出会ったのが、安西にも紹介した経営コンサルタントであった。
大隈は既に三年以上勉強している。その自らの実体験から、同級生であり同業者でもある安西に、いち早く教えたかった。体験から来る確信は強い。だから、全く利害のない安西には、ストレートに、しかも、純粋に伝わった。そして、創業者であり、最終意思決定権者である安西の決断は早かった。
その安西が、今度はハピネスの竹岡専務を誘いたいと言ってきた時には、二つ返事で賛成した。なぜなら、最近二人で酒を飲む時の話題の殆どが、ハピネスのあれこればかり。さらには、竹岡専務の善からぬプライベート問題が、業界のあちこちで囁かれてもいたからだ。その話題の専務が、誘いに応じて今、目の前に座っていることが、嬉しくも不思議でならなかった。
大隈は、心から“ようこそ”といった思いで、正美を見つめ、
「お忙しいところ、本当にありがとうございます! 嬉しいです!」
素直な思いを言葉にして伝えた。だが、当の正美は、なぜ大隈社長に礼を言われなければならないのか?自分がセミナーに出席することを喜ぶ理由が分からない。
この間に、注文した料理は運ばれてきていたが、全く目に入らなかった。困惑したまま、セミナーのパンフレットを、ボーっと見つめるだけだった。一体どんなセミナーなのか? どんな経営コンサルタントなのか?あまりのギャップに、不信すら覚えてしまった。そして、そのままの表情で、
「大隅社長は、勉強を始めて何年になるんですか?」
力なく聞いた。
「私はもう、三年以上になります。」
対照的に軽やかに答えた。
「さっき安西社長に確認したら、異業種と聞いたんですが、どんな勉強なんですか?」
正美は、せっかく頼んだ料理を食べずに、ホークでいじり回しながら聞いた。
大隈は、一瞬迷った。短時間で掻い摘んだ話をすることが、果たして価値的だろうか?と・・・そして、
「専務、今日はハピネスと同じような結婚式場や披露宴を行っているホテルの社長さんの体験がありますから、是非聞いてみてください! 私があれこれ言うよりも確かですし・・・」
ここでも、正直に話した。
それでも収まりが付かない正美は、無理やり料理を口に入れ、コップの水で一気に流し込んでから、こう言い出した。
「私が勉強すると、お二人に何かメリットがあるんですか?」
これには、大いに慌てた。二人は間髪を入れずに、
「全くありません!」
歯切れ良く答えた。二人は見事に呼吸が合っていた。正美は、何かの勧誘をされていると勘違いしているのか?これは良くない!と思いながら、安西は時計を確認した。すると、いつの間にかレストランは、三人の他に数テーブルのお客だけになっていた。十二時五十分、セミナー開演十分前だった。
安西から十分前であることを聞かされた大隈は、急ぎ会計を済ませた。このスピードには付いて行けなかった。正美にご馳走するはずの安西まで、後から来て何も頼まなかった大隈に払わせてしまったのだ。三人は小走りで会場に向かいながら、
「申し訳ない!後で清算するからな!」
安西が大隈の肩に手をやると、
「なに言ってんだよ!今度ご馳走になるよ!」
そう言いながら、振り向きもせず、セミナー会場へ急いだ。
大きな鞄を抱えた正美は息を切らしながら二人に付いて行く。が、気の乗らない分だけ、二人からは、見る見る遅れてしまう。お構いなしに、時間に遅れまいとする安西と大隈は、正美のことをすっかり忘れていた。そして、会場前の受付まで来て、ようやく、その事に気が付いた。振り返ると、重そうに鞄を脇に抱え、ゆっくり歩いてくる。それを確認した二人は、三人分の受付を済ませた。
三人は、係のスタッフに誘導されながら、既に満席の会場一番後部席に、定刻ギリギリに滑り込んだ。正美は、安西と大隈に挟まれる形で座り、会場を見回していた。最後部ということもあり、会場全体が良く見渡せた。その光景に、圧倒されてしまった正美だが、その事は口にしなかった。
会場全体の緊張感のある雰囲気も手伝って、三人は無言のまま、その時を待った。すると、会場が暗くなり、大音量のBGMと共に、二面の大きなスクリーンに、セミナーの開会をメッセージした映像が流れ始めた。その、まるで何かのショーでも始まるかのような演出に、正美は、またまた疑いを強くしていた。とにかく、一つ一つが正美の想像と全く違っていたのだ。参加者は整然と、しかも、行儀よく場内の空気に同化しているように感じた。「これは異常だ!」「何か違うぞ!」と、ここでハッキリと警戒感を持った。そして、左右に座わり姿勢良くしている、安西と大隈とは対照的に、正美は椅子に深く寝そべるように座り、自然と眉間のしわも深くなっていた。
セミナーはスケジュールにしたがって進められていたが、司会の案内も、主催者の挨拶もなにも、正美の耳には届かないほど動揺していた。安西は、そんな正美を横目に見ながら、次のプログラムに期待していた。それは、体験発表であった。大隈も同じだった。レストランで正美から受けた質問の答えが、この体験の中にあると、その場での回答を避けた。だから、正美の態度は気になっていたが、それも、この体験発表を聞いてくれれば、きっと分かってくれると信じていた。
そして、二人が最も楽しみにしていた、体験発表が始まった。正美には聞こえていなかったが、開催に先立ち、主催者からのメッセージの中に「結果を変えたければ、自分が変わること! トップリーダーの変革なくして、経営の変革はない!結果も変わらない!」とあった。この極めてシンプルなメッセージは、二人の背筋を伸ばすものだった。
結果を変えたい、売上を上げたいとは考えてきたが、自分を変えようなどとは思っていなかった。その実際は、どうしたなら、望む結果が得られるのか?と、その手段としての方法は安西も大隈にしても、熱心にしかも真剣に追求してきた。だからそうした情報には人一倍敏感であった。さらに、“企業は人なり”といって、売上アップのための社員教育も、それなりにやってきた。また、そう自負もしている。一言で云えば、共に勉強熱心であったのだ。現実に、それ相応の結果が出ることもあった。がしかし、それらは必ず行き詰まる。正に、一進一退の繰り返しであった。そこで、二人が強く指導されたのは、「その原因の一切が、トップリーダーにある」ということだった。
会場の期待が高まる中、まず司会者に紹介され登壇したのは、長野県は長野市でホテルを経営している、斉藤昭雄社長であった。司会のアナウンスが合図のように、場内には大きな拍手が起き、しばらく誰もその手を止めようとしない。斉藤は、その雰囲気に気おくれする様に、顔を真っ赤にしながら、用意・準備した資料を、抱きしめるようにして演壇に立った。
安西は、背広の内ポケットから手帳とペンを取り出し、メモの用意をして身構えている。大隈の方は、手の平にすっぽり収まってしまうほどコンパクトな録音機を準備して、身を乗り出すようにしている。そんな二人とは対照的な正美は、腕をガッチリと組み、寝そべった格好で無表情にステージを見ていた。一度警戒心を抱いてしまった正美の目には、全てが不自然にしか映らなかった。誰もが知る有名人のコンサートが開演したかのような拍手。だが、その人は、名前どころかホテル自体も聞いた事がなく、全くの無名。そんな人間の体験が、はたして現実に悩み、迷い、苦しんでいる者に、役に立つというのか?と、不信に加え無関心になっていた。それどころか、ここに至って、後悔の念が正美を支配していた。
「もっと事前に取材しておけば良かった」と、うつむき眉間のしわを更に深くしながら呟いた。そして視線の先にある足元の鞄を開き、改めてセミナーのパンフレットを取り出した。主催:株式会社アンビシャス 東京都千代田区・・・『結果を変える会社』 場内は一斉に壇上を注視する中、一人正美だけは、いま自分自身が不可解で馴染めない空間にいることを再確認していた。
それでも、今更抜け出せないと観念しながらも、壇上を見ることなく腕組みしたまま聞いていた。すると、急に登壇者の声が途切れた。六〇〇人を越える聴衆の息使いだけが聞こえる静けさに、思わず何が起きたのかと、ステージを見た。そこには、白髪交じりの斉藤が、声を詰まらせ、演台に顔を伏せるようにハンカチで目頭を押さえながら、肩を震わせていた。
これには、正美も一瞬、思考が停止してしまった。そして、しばらくの間をおいて、『一体どう云うことなのか?』と、会場を見回してみた。すると、場内のあちこちで、同じくハンカチで顔を隠すように下を向いている人や、鼻をすする音が、そこかしこから聞こえてくる。正美は、少し体勢を戻しながら、気付かれないように、そっと横目に安西を見た。その安西の目は真っ赤に潤んでいた。さらに、腕を組みなおしながら、今度は大隈を覗き見ると、手持ちのレコーダーを忙しなくいじり回しながら、何かを堪える様に目を強く閉じていた。
ここまで、ほぼ何も聞いていなかった彼の中では、この時、自分を支配していた警戒心と不信感が決定的なものになった。そうすると、次第に苛立ちを覚え、傍目にもハッキリ分かるほどの、貧乏ゆすりがはじまった。こうなると何も聞こえないどころか、一切聞こうとしなかった。そして、開演前に切っておいた携帯電話の電源を入れ、誰の目も気にすることなく留守番電話を確認した。
どのくらいの時間だったか?とにかく長く感じた。司会者から、ホテル信州の斉藤社長へ体験発表を労うコメントが添えられると、場内は一段と大きな拍手が送られ、しばらく鳴り止まなかった。正美は、このタイミングを逃すまいと、足元に置いていた鞄を、両腕で抱え、安西と大隈を無視したまま会場を飛び出した。
驚いた二人は、慌てて正美を追いかけたが、これまたビックリするほど早かった。ロビーに出てきた安西は、それを見て大声で正美を呼び止めた。明らかに正美には聞こえる声量だったが、振り向いてはくれない。それを見た大隈が今度は、「竹岡専務どうしました?」と、立ち止まって両手をメガホンのようにして叫んだ。が、決して振り返ろうとしなかった。その背中は、二人を停まらせるほど、頑なで鉄板のように見えた。そして安西は、少しずつ足を遅めながら、正美を見送った。
安西と大隈は、顔を見合わせながら、ロビーのソファーに腰を下ろした。安西は頭に手をやりながら、
「急にどうしたんだろう?」
寂しそうな眼差しで大隈を見ると、
「何か気になったことでもあったのかな?それとも、急用でも入ったか?」大隈は、安西を気遣って慰めるように言った。
「いや変だよ!だったら、ひと言ぐらいあってもいいだろう?」
「確かに・・・」
二人は、それぞれに思い当たるところを考えながら、ソファーに頭をつけて天井を見つめていた。セミナーが始まって、まだ一時間余り。時折、お互いに見つめ合いながらも言葉はなく、困惑で顔をゆがめていた。
その頃、会場のドアがスタッフによって開け放された。二人目の体験発表が終わり、休憩時間となったのだ。間もなく、ロビーは満員電車が到着した駅のホームのように、一気に人で溢れた。安西と大隈の座っていたソファーも一杯になったが、二人は全く気が付かないでいた。そこへ、「大隅社長!こんにちは」と、後ろから突然、両手で肩を揉まれた。
大隈が驚いて振り向くと、親しみのある笑みを湛えながら覗き込んできたのは、アンビシャスの有島だった。もうかれこれ二年以上、大英食品を担当してくれている、アンビシャス生え抜きの幹部役員だ。
「今回は、大隅社長に体験発表を、お願いしようと思っていたのに、旨く逃げられましたなぁ~」
いつもの有島節が始まるかと思ったが、
「あれっ、今日はちょっと、いつもの社長じゃないようですなぁ~どうかしましたか?」
さすがに大隈の浮かない表情を見逃さなかった。
「有島専務じゃないですか!どうも・どうも・・・」
とは云いながら、繕いきれない表情のままソファーから立ち上がって、有島に手を差し出した。
「あれっ、やっぱり何かあったようですね!」
そう言って、両手で大隅の手を強く握り締めて返した。
大隈は、思わず事の次第を話してしまいそうになったが、まだ、ソファーに埋もれるように考え込んでいる安西を見て、不自然に話をそらした。正美の紹介者は安西だ。その安西を思えば、今は、少しの時間が必要だろう。大隈は、その場を回避しようと、
「有島専務失礼します!ちょっとトイレへ・・・」
大隈は、その場を離れた。有島も気にはなったが、そっと頷くように、
「では、後ほど・・・!」
有島は、大隈の肩にそっと手を掛けた。
ホテル玄関に、待機中のタクシーのドアを自分で開け、飛び込むように乗り込んだ正美は、そのドアを、思い切りまた自分で閉めた。待機中でありながら、休憩中でもあったタクシードライバーは、目を丸くして後部座席への侵入者を確認した。
「えー、どっ、どちらまで?」
運転体勢をとり、今度はバックミラーを見ながら、息が上がり、少し苦しそうにしている正美を見て、もう一度聞いた。
「ご乗車ありがとうございます!どちらまで参りましょうか?」
体を丸めながら、何度か深呼吸し、少し落ち着いたところで、抱きかかえた鞄を隣の席に置きながら、
「新宿までお願いします」それは、聞き取れないほど、か細い声だった。
「えっ、どちらまでですか?」
「新宿!」
明らかに不機嫌そうな言い方で言い返した。
会話は、「どちらまで?」「新宿」これだけだが、互いの間では、「お客とは云っても、断りもなく突然乗り込んできたマナーの悪さを不愉快に感じている」思いと、「新宿までって言ったろう!聞こえないのか?」と言う、苛立った思いが、一瞬にして狭いタクシーの中に、重い空気を作り出してしまった。そんなドライバーの思いが、そのまま手荒な運転になり、新宿のどこまでかを確認することなく走り出していた。一方正美は、予約をしているホテルを思い出せないでいた。分かってはいるのだが名前が出てこない。有名な繁華街・歌舞伎町の直ぐ近くのホテル。名前が出てこない。
息苦しい空気を入れ替えるように、正美は窓を半分開けて、もう一度小さく深呼吸し、目の前を流れるビル群を見ながら、
「新宿東口・伊勢丹・アルタ」
思い出したまま口にした。そして、鞄の中から手帳を取り出そうとしたとき、
「プリンスホテル・・・まで!」
ドライバーは、その独り言のように呟いているのを聞いていた。確かに聞こえた。が、聞こえない振りをして、変わらず乱暴な運転を続け、タクシーは、新宿・伊勢丹の前を通過しようとしていた。そっと腕時計に目をやると、午後二時三十分を少し回ったばかりであることを確認した正美は、
「ここで良い!止めてくれ!」
今度はドライバーもビックリするほどのトーンで言った。慌てて、降り位置を考えることなく、すぐさま車道に停車した。ビックリしたのはドライバーだけではなかった。後続車の乱打のクラクションも気にせず、料金を払い逃げ出すように飛び降りた。そして、新宿の人込みの中に消えていった。
その頃、赤坂のホテルではセミナーの第二部が始まっていたが、安西と大隈は、まだロビーにいた。二人は、気が抜けたように、深いソファーにすっぽりと納まり動かない。向かい合わせでありながら、決して顔を合わせようともしない。ただジッと壁に掛かった絵画を見つめる安西。天井のダウンライトを意味もなく数えている大隈。だが、思いあぐねている事だけは一緒だった。
会場から拍手が漏れ聞こえてきたのを気にしたのか、大隈が小さく安西に言った。
「下でコーヒーでも飲もうか?」
安西の返答はなかった。が、その大隈を見つめながら、無言で立ち上がった。そして、二人は昼食をとったレストランへ移動した。
二人はここでも向かい合わせに座り、しばらくは会話もなく、申し合わせた様にコーヒーカップを覗き込んでいた。広いレストランの片隅で、もう三十分は過ぎている。その光景は、仕事で大きな失態を犯し、落ち込んだサラリーマンのようにも見えた。
たまらず大隈が、コーヒーカップを拝むように持ちながら、
「急にどうしたんだろうな?・・・何も思い当たらないんだよな・・・」
大隈が神妙に言うと、
「いやっ、俺がもっと丁寧に説明しておけばよかったんだ!」
ようやく安西が口を開いた。
「そんなことはないと思うよ! もしそうであっても、突然、何も言わずに帰ってしまうのは、よく理解できないよ!」
大隈は、正直にそう言いながら、正美に対して「失礼だ」という思いになっていた。
「いやいや、竹岡専務も今大変なんだよ!」
「だから誘ったんだろう?」
「そうなんだけど・・・それは俺の一方的な・・・なおさら気配りが足りなかったんだよ!」
安西は、寂しそうに大隈を見た。
大隈は驚いた。長く付き合ってきて、よくよく安西という人間を知っていたつもりだったが、そこまで相手を思いやれる一面を再発見し、感動にも似た思いを抱いた。
「彼のお父さんには、創業の一番しんどい時に助けてもらったんだよ!」
「それは俺も知っている」
「それだけなんだよ!その恩に少しでも報いたいだけなんだ!」
安西は少し声を詰まらせた。
「安西お前、変わったな。 良い意味でなっ!」
「それは、お前のお陰だよ。ここのところ、アンビシャスで色々考えさせられる指導が多くてなっ」
安西はここでも感謝を口にした。そんな親友をまじまじと見つめながら、嬉しそうに言った。
「そう云って貰えれば、俺も嬉しいよっ本当に」
そんな二人に、もう話は要らなかった。思いついたように、冷え切ったコーヒーを勢いよく同時に飲み干し、セミナー会場へと戻っていった。
夕方六時。新宿駅周辺は、仕事帰りの人で溢れていた。世界でもその名を知られたこの町が、昼の顔から夜の顔へと変貌する時間帯でもある。その雑踏の中、道行くサラリーマンより少し大きめの鞄を片手に、映画館から出てきた正美は、迷わず人混みを掻き分けるように歩きだした。
着いた先は、伊勢丹百貨店だった。ここ新宿でも老舗デパートの大きな店内を、また迷うことなく進んだ先は、ブランドショップだ。更にここでも、一切躊躇うことなく、ズボンのポケットからメモを取り出し、店員に自ら話しかけ、僅か十五分でお目当ての商品を手に店を出た。そして、正美は、鞄と大きな紙袋を両手に持ち、どこからともなく湧き出たような人混みに、流されるようにまた消えていった。(続く)
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