運命の星(三)

杜の都・仙台の中心部に程近い、青葉城が望める立地にあるハピネスは、敷地面積二〇〇〇坪。今から約四十三年前、武夫が二十三歳の時に、この地で焼肉店を開業したのがはじまりだった。
武夫は二十三の春、お見合いで洋子と結婚した。その年、高度経済成長後期の一九六十六年・昭和四十一年に、生肉店を営んでいた叔父の竹岡克己に進められ、五十坪の土地を購入し、“焼肉の大将”をオープンした。当時、そこは雑草生い茂る荒地と近くの農家が作る畑に囲まれた、正に一軒家のようなところだった。だが、時代は大きくその姿を変えていた時期でもあった。この二年前には、戦後初となる東京オリンピックが開催され、国内経済は成長の一途をたどっていた。それは、あの忌まわしい第二次世界大戦の敗戦から立ち上がり、今まさに、あらためて国際社会の仲間入りを果たした象徴のような、国家プロジェクトのイベントであった。
そのような時代を背景として、夫婦は慣れない商売の手解きを、叔父さんに頼りながら、夜通し懸命に働いた。とにかく何でも良い、一生懸命が報われる良き時代でもあった。
それでも、一年以上赤字が続いた。借金も膨らみ、返済も仕入れもままならない時も度々あった。そのような状況でも、長年商売をしている叔父は、はじめから織り込み済みで、何のためらいもなく資金援助をしてくれた。それは、武夫を見込んでのことだった。何よりも、まじめに、その一生懸命な姿に、応援せずにはいられなかったのだろう。
そして、辛抱を重ね三年になろうとする頃には、次第に客が客を呼び、店は忙しくなっていた。また、ちょうどその頃、長男の正美も生まれ、益々精力的になっていった。これこそ口コミで繁盛し、みんな常連客ばかり。さらに、三年が過ぎ、武夫は、この勢いに乗じて店を広げようと考えた。それは開業五年目の秋だった。
隣接する土地・三〇〇坪を、これまでの蓄えで買い、新たに一億の借り入れをして“割烹 たけ岡”を立ち上げた。それは直ぐに、地元で話題になった。美味い焼肉店で知られていた“大将”が、今度は割烹を始めるという。
武夫が厨房に入りながら社長を務め、洋子は女将として最前線に立つ。更に、板前を三人と仲居さんが三人。そして、経理・番頭役に武夫の妹で、近くのサラリーマンの家に嫁いでいた、鈴木典子を就けた。加えて、繁忙期にはパートさんを雇うという体勢を整えた。
この頃になると、体験を基にした、いわゆる商売の勘所がわかってきた。なにより、これまでのように、将来の不安を考えるのではなく、大きな展望を持つまでになっていた武夫は、時を置かず、次なる一手として、より積極的に営業活動を始めた。
営業マンは、武夫とは六つ離れた末の弟・武志であった。東京の大学を卒業することを知った武夫は、都内の会社に就職が決まっていた武志を、なかば強引に説得したのだ。これからの時代を見越し、コンピュータ関連の仕事を選んでいた武志にとって、サービス業・飲食業は、全く考えていなかった。ただ、父親を早くに亡くし、母と兄が父親代わりで、しかも、四年制大学に我侭を言って通わせて貰ったのも、その兄がいたお陰だと、どこか納得のいかない自分に言いきかせて、営業ならばと言って、手伝うことを承諾した。これで総勢十名の組織が出来上がることになった。
その後、“割烹・たけ岡”は、今までハンディキャップと感じていた立地も、静かな佇まいで隠れ家的な認識をされ、企業の接待によく使われた。さらに、当時では珍しい送迎用のマイクロバスを用意し、遠方からの集客もした。そして、営業を担当していた武志も、お客の要望を積極的に取り入れ、様々な企画を打ち出し、その悉くは大ヒットした。
こうして、“焼肉の大将”の開業から十年を迎えようとしていた。それは、これといった構想を持たないまま、必死に頑張ってきた十年であった。夫婦二人で立ち上げ、兄弟を招き入れ十人の所帯となり、気が付けば売上は三億を越えていた。陣容も倍の二十名となり、駐車場の名目で買い広げた敷地は、一〇〇〇坪にもなっていた。
この頃になると、“割烹・たけ岡”が事業の中心で“焼肉の大将”は、どうしても片手間の仕事になっていた。そこで武夫は、弟の武志に相談を持ちかけた。いわゆる、経営執行会議である。深夜の事務所で行われたこの会議は、朝まで続いた。二人は真剣だった。そして下された結論は、“焼肉の大将”の建設的な廃業と宴会場の増築であった。
これには、現場を仕切る女将も、財布を預かる妹の典子も、全く異論はなかった。かえって、積極的に賛成してくれた。この時、武夫は人知れず「勝負だ!」と、自分自身を鼓舞していた。
“割烹・たけ岡”の建設にあたり借り入れた一億は、五年で完済。さらに、その後、土地購入のために不足分を借り入れた残債も、ほんの僅かであることを確認した武夫は、投資総額五億の計画を打ち立てたのだった。
早速、銀行交渉に取り掛かった。この十年間、唯一の取引銀行に、一人乗り込んだ。しかし、計画書も何もない。資料らしきものは全く見当たらない。ただ、構想と展望だけを熱っぽく語る、その前のめりな武夫を見た銀行の支店長は、躊躇してしまった。三十三歳と言う年齢に加え、五億という金額は、一支店長の決済としては決して小さくない。瞬間、武夫の事業そのものよりも、我が身の保身を考えた。ただ、この十年間の実績は否定できない。まして日本経済の発展と流れを考えれば、銀行マンとしての汚点の回避を考えたとしても、積極的反対は出来ない。それでも尚、自身を案じてこう言った。「保証人を立ててください」と。その一言に含まれていたのは、実に冷たく事務的なニュアンスだった。
武夫は、この一件で心に刻まれた思いがある。そして、生涯、経営者としての心得の一つとした。それは、今回の投資案件を持ち込む前の銀行は、それこそお得意様扱い。そう、様・様である。土地の購入の時も、追加の設備資金も、季節資金であっても、これまでは二つ返事であった。
それが・・・・・・。まだ年若い武夫ではあったが、直感でそれは察した。
銀行は、自分たちの利益の範囲、つまり、都合の良いことは様・様で受け入れるが、一旦、銀行が、否、自分自身が損を被りかねないことになると、手の平を返したようになる。「結局、銀行というところは、自分たちの事しか考えていない!」ということだった。
こうした全く想像していなかった銀行の対応に、不満と共に、正直ガッカリしたものの、事前に叔父の克己に相談し、了承を取り付けていたので、保証人の件も承諾し、融資を受けられる運びとなった。
それから約一年、地形良く、更に一千坪の土地を手に入れ、敷地総面積二千坪、大小併せて三つの宴会場を擁した、施設が完成した。同時に、建物のデザインと、そのコンセプトから、この期に名称を改めると共に、事業方針を明確に定めた。
それが、総合結婚式場・高砂殿。後のブライダルステージ・ハピネスである。焼肉の大将から始まり、割烹・たけ岡となり、今、全く新しい業態への一大転身であった。実際は、その大胆さゆえ、将来を危ぶむ声もあった。妬みにも似た心無いうわさも聞こえてきた。だが、その発展は、銀行も目を見張るものだった。当時、結婚式の多くは、まだ自宅を使ったり、近くの集会場で近所のお手伝いを貰いながら行われていた。一部の富裕層は、仙台駅前のホテルなどを利用してはいたが、まだまだ少なかった。そこに地元も注目する、大型の専門施設の登場となった。これも、あの夜、武夫と武志の深夜会議で構想し現実化したものだ。
勢い、正式に株式会社として法人登記したのも、この時である。代表取締役社長には武夫が、専務取締役として夫人の洋子が就き、常務取締役に弟の武志、そして、取締役に妹の典子、更には、今日まで支え続けてくれた叔父の克己を非常勤の取締役に迎え、“株式会社・竹岡”の役員を構成した。
更に十年の時が過ぎ、その経営内容は、売上十五億、スタッフ総勢五十人にまで拡大していた。毎年の決算では、数億の利益をたたき出し、税務署からの表彰もされるなど、地元経済界でも、広くその名を知られるようになっていた。そして後に分かるのだが、時代は空前のバブル景気に突入していた。
長男の正美は、東京の大学に通い二年になる。長女の遥も大学受験を控えた高校三年生になっていた。一男一女の二人の子供にも、すっかり手がかからなくなり、事業経営の醍醐味をあじわい喜びながら、武夫四十四歳は、更なる策を打とうとしていた。
それは、増築で広げた高砂殿を、ほぼ新築で建て直す計画だった。これまで武夫はハッキリ言って、勘を頼りに経営してきた。それがここに来て、様々な業界が参入しながら出来上がった、結婚式場業の変化のスピードに付いて行けないという、正直な思いを抱いていたのだ。それは、弟の武志も同じだった。ガムシャラに営業の最前線で生きてきた武志にして、業界の大きな“うねり”のような物を感じずにはいられなかった。
ただ、事ここに至っても二人には、これまでの実績と経験上の自信だけは満々とあった。が、残念ながら、その変化の激しい現実の中では、空回りしていた。だからこそと、もう一度勝負に出たのだった。
武夫の勘には明確な裏付けは無いものの、極めて敏感で確かだった。時代のニーズを巧みに取り入れ、武志の営業現場からの生の声を反映させ、またまた斬新な発想を実現しようとした。そのコンセプト・デザインは、これまでの『和』を基調としたものから、若者を中心に、どこか憧れのようなものを持っていた、『西洋文化』を取り入れた、お城をイメージしたもので、敷地全体を隅々まで見直し、原形を留めないものである。
今回の設備投資金額は十五億。業績に時代状況も手伝って、誰も何も言わない。銀行が一番乗る気であった。そして構想から一年半。はからずも、昭和天皇の崩御にあたり、昭和から平成へ改元された、一九八九年四月・平成元年、東北の経済の中心地・仙台に白亜の洋館が出来上がった。その名を“ブライダルステージ・ハピネス”。
これも武夫の勘が当たった。武志が営業現場で聞いていた、生の声の正しさも証明された。まさに、「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、この事かと思わせられる快進撃だった。売上規模も三十億に、すぐ手が届くところまで来ていた。
そして、劇的なデビューをしてから四年、様々な話題を集めたハピネスだったが、この頃から、次第に話題の中身が変わってきていた。市内には名だたるホテルが進出し、尚且つ、新旧のホテルがこぞってブライダルに力を入れ始めていたのだ。老舗のホテルや大資本を後ろ盾とする有名ホテルから見れば、ハピネスなどは、単なる成り上がりでしかなかった。また、そう見ていた。だから、単純に面白くなかった。売上は別にして、婚礼数だけを見れば堂々の一番店である。それが気に入らない。「あの焼肉屋がっ!」と吐き捨てる者もいた。また、嫉妬じみてはいるが、『所詮は、一時の夢物語になるのは時間の問題だっ!』などと、陰で囁かれていた。
噂は無責任である。何の根拠も持たないばかりか、勝手に一人歩きしてしまう。実際、『あそこ、もう危ないって聞いたぞ!』となっては、全く事実無根である。それでも噂の恐ろしいのは、それらが真しやかに伝わるところだ。
ある日、事業の切っ掛けをつくってくれた、叔父で非常勤の役員でもある、克己から、心配して電話がかかってきた。それまでは、一切聞く耳を持たずにいた武夫も、この時ばかりは、弟の武志に話しをした。すると、本当に意外な返事が返ってきた。
「社長!俺もその噂は聞いたことがある・・・だったら、もう一丁花火を打ち上げる!って云うのはどうだろう?」
その表情は、うっすら笑みを浮かべながらも、力強く聞こえた。
『そんな噂に負けてられないだろう!』と言うのが本心だろうが、その一言は心から嬉しかった。武夫はそれ以来、武志の前で弱音を吐くことは無かった。
ただし、右肩上がりで善戦を続けた売上も、この年をピークに、二年間の停滞をすることになる。そして、その翌年には、ここ二十年来はじめて売上を落とすことになったのだ。
落としたといっても、経営的に云えば少々の減益であり、実態に影響があるわけではなかった。それはそれとして、改めて次の手を講じなければならないと、考え始めていた、ちょうどその時期、大学を卒業し東京で就職をしていた正美の結婚話が持ち上がった。武夫は、本人には言ってはいなかったが、いずれ跡を継がせたいという思いを持ちながらも、「外の飯を食わせ、多少の苦労をさせたい」という考えから、それまでは黙っていたが、このタイミングで本気で正美を説き伏せたのだ。が実は、正美は正美で、そのつもりでいたので、父親のあまりの迫力に、黙って従う振りをして見せたのだった。
こうして、後継の正美を組織の一員に加え、これまで以上に、次々と新手を打った。改装は数え切れない。演出機材にも相当の投資をした。どこかマンネリ化した組織にもメスを入れた。なにより、今まで一切手付かずの社員教育にも、時間と経費を使った。それは今までに無いスピードで進められた。その武夫も、五十を境に地域の役を幾つも引き受けるようになり、現場は専ら、常務の武志と、新たな組織人事で母・洋子に代わって専務になった正美の二人に、その経営の大部分を任せていた。
時も時、時代はまさに大きく動き出していた。バブルの崩壊だ。この衝撃は大きかった。金融機関を中心に、日本経済を根底から揺り動かすものだった。何年もの間、資産価値が投機によって、実体経済を上回り、知らぬ間に、経営のバランスを大きく崩してしまっていた。ハピネスも全く例外ではなかった。資産、中でも土地は上がり続けることはあっても、決して下がることはないといった『土地神話』なるものも、この時、見事に崩れ去った。
それから数年間、経済は停滞し、消費はかつて無いほど落ち込み、それはそのまま売上に連動した。瞬間的には、三十億まで行った売上も、あっという間に二十億にまで落ち込んだ。
この災いの中心である金融機関は、我先に生き残りのための提携・合併を繰り返し、弱小銀行の社会からの退場が相次いだ。それは見苦しくも現実の厳しさを思い知らされるものだった。当然、多くの中小企業も、この世界を驚かせたバブルと共に消え去って行った。
渦中のハピネスは、それでも潤沢に蓄えていた資金のお陰で、激流を避けながら、反転巻き返しに出ていた。その原動力は、武夫の事業の原点でもある、“焼肉の大将”での苦労体験だった。世間が悲鳴をあげる中、大きく傾いたバランスを、当時、それは今まであまり耳にすることがなかった“リストラ”なるもので、いち早く整えていた。
ただ、これまでの日本的経営の象徴でもあった終身雇用とは対極にある、この欧米的なテクニックで、あまりに大胆な“リストラ”を敢行したため、それまで、信頼を寄せていた多くのスタッフの間に、疑心や不安を作り出したのも、否定できない事実だった。その証拠に、社員として残った中からの退職が相次いだ。しかも、中堅の社員ばかり。
結局、こうした非常事態ともいえる経営上のスクランブル状態になって、その経営の本質が露呈してしまった。社員あっての会社である!とは考えていても、いざとなれば、生き残りのためには、社員・スタッフを簡単に切り捨てる。それも已む負えない現実であることは理解できる。しかし、それをただ単にテクニックとして、無慈悲に実行してしまえば、切られたスタッフという『人間』に深く大きな傷痕を残してしまうことになる。そればかりか、実は、エゴイステイックなテクニックは、極めて危険な諸刃の剣であり、気付かずに我が身をも大きく傷つけ、致命傷となることもあるのだ。
そんな将来の憂いを残しながらも、立ち直ったかに思えたハピネスだったが、一度冷え切ってしまった組織は、そう簡単には戻らなかった。そこそこの売上と数字上の利益だけは何とか維持・確保しながらも、リストラを切っ掛けに、見えない組織内部の精神的腐敗は、日を追う毎に進んでいた。時を一にして、ここまで約四十年以上に亘って経営・展開をしてきた、施設絶対、ハード偏重の経営は行き詰まる事になるのだった。
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