運命の星(四)

三月も最終の週末を終えた月曜日。スタッフの多くは休みを交替で取っていたため、この日は、半分以上が休暇に入っていて、ハピネス館内は静かだった。部署ごとに朝礼のようなものが行われてはいたが、形だけのもので、直ぐに持ち場に散っていた。そのシーンと静まり返った事務室には、経理・財務担当の典子が、一人帳簿を整理していた。そこに、一本の電話が鳴った。典子は、電卓を弾きながら受話器を取り、気の無い声で、
「はいっ、ハピネスです」
「ハピネスさんですか? こちらは、宮城県仙台保険福祉事務所です」
「えっ?どちら様ですか?」
帳簿に夢中だった典子は、聞き取れなかった。
「お忙しいところ突然ですが、保健所のものです!」
こんどは、ハッキリ聞こえた。と同時に、電卓を叩く手も瞬間に止まった。そして、その手に受話器を持ち替えて、
「保健所ですか?どのようなご用件でしょうか?」
典子は、宴会の予約かなとも思いながら、でも予約であれば、予定日と人数、そして、会場の空き状況から聞いてくるものだ・・・嫌な胸騒ぎがした。
「実は、市内の病院から、食中毒ではないかという連絡がありまして、お電話いたしました」
その一言で胸騒ぎは、大きな動揺に変わった。
「食中毒ですか?どういうことでしょう?」
もう察しは付いた。だから、受話器を持つ、もう片方の手でハンドバックの中にある携帯電話を探していた。
「病院からの報告ですと、その患者さんは昨日の午後、そちらで行われた結婚式に出席をされたようなのです。」
その動揺は大きく、携帯電話を探していたハンドバックは、強盗にでもあったかのように、机の上に撒き散らかされ、ようやく見つけ出すと、片手で常務の武志のアドレスをチェックしていた。
「もしもし・・・ 聞こえてますでしょうか?」
「はいっ、聞こえています!」
典子は、受話器を首で押さえ、左手には携帯電話、右手にボールペンを持ち、帳簿を裏返しメモの用意をした。
「どちらの方でしょうか?」そして、「症状は・・・?」
恐る恐る尋ねてみた。
「名前はまだ申し上げられません。現在確認中で、詳しいことが分かり次第、改めて連絡させていただきます! 失礼ですが、お名前は?」
「鈴木と申します!」
「わかりました!社長さんによろしくお伝えください。失礼します!」
困惑したまま、受話器を置くことも忘れ、誰よりも先ず、常務に連絡を取ろうと、携帯電話を掛けた。典子にとって、割烹・たけ岡を手伝いだしてから三十年以上になるが、初めてのことで、どうしてよいか分からない。
電話は繋がった。が、
『お掛けになった電話は、電波が届かない場所にー 』
出ないっ・・。何をどうしてよいかと、携帯を見つめながら、切らずに机の上に置いた。少し落ち着こうと自分に言い聞かせ、改めて、今度は正美に電話をした。
『お掛けになった・・』正美も出ないっ!。呆然と事務室の時計に目をやると、十時三十分を少し回っていた。その時計の下に月間の業務スケジュールが書かれたホワイトボードがあった。それを見た典子は、
「あっ、そうだ!」
もう一枚の一メートル四方ほどの、執行メンバーの個人スケジュール表があることを思い出した。それは、事務室の反対側の出入り口すぐ脇にあった。典子は、急いでそばまで行って確認した。
そのホワイトボードには、縦に名前が書かれ、横に一日から三十一日まで、用件が記入できるようになっていた。
「今日は二十八日、二十八日・・・」
と呟きながら、一番上の社長のスケジュールを確認した。そこには、二十四日木曜日から三十日の水曜日まで、赤色のマーカーで横に真っ直ぐ線が引かれてあり、その下には、青色のマーカーで、※商工会:ヨーロッパ視察と書いてあった。そして、
「正美・正美・・・正美はどこ?」
ホワイトボードを摩りながら見た。専務と書かれた欄には、二十八・二十九・三十と三日間のスペースを使って、“東京主張”とだけ、黒いマーカーで重ね書きされていた。
「東京って、何の用事だったかな?」
小さく首をかしげながら、思いあたりを探してみた。さらに、その下には、女将と書かれ、“休“とだけ記され、常務の段を確認すると、銀行(ゴルフコンペ)となっていた。
「そうか!常務はゴルフか?どこのゴルフ場だろう?」
また一人呟きながら、支配人は・・・と確認すれば、そこは空白だった。
「支配人は居るみたい・・・」
典子は、ちょっと安心した。ようやく、落着きを取り戻し、自分以外だれも居ない事務室を、ぐるりと見回しながら思った。ここ数年、業績だけでなく社内の雰囲気というか会社全体の活気が感じられない。真剣さも緊張感もない。ただ、日々の仕事をこなしているだけ。一時は、かつて経験したことのないバブル崩壊に伴った大不況を、身を持って味わってはいた。が、それも過ぎてしまえば、皆、過去のものとなり、そのことからは何も学んでいない。ただなんとなく遣り過ごしただけではないか。六十を過ぎ今尚、典子は会社の財布、いわゆる経理、財務を担当していたが、その数字にはまだ表れていない、なにか大きな不安を感じた。
もう一度、気を取り直そうと、事務室の裏口から外に出て、直ぐそこまで来ている春の空気を大きく吸い込んだ。ひんやりと清々しい早春の陽気を全身で感じながら、あふれ出てきた思いは、
『それにしても、この会社は一体どうなっているんだろうか・・・』
『どこに行こうとしているのだろうか?』
兄の武夫と共に形上は経営に参画してはいたが、経営の難しいことは分からない。ただ、起きてはならない事態、起こしてはいけない事故が、起きてしまったかも知れないということだけは自覚できた。典子は健気に、そして気丈に、急ぎ事務室に戻り、館内放送で支配人を呼び出した。
机に戻り、改めてハンドバックの中身が散乱していることを見て、慌てていた自分が少し恥ずかしくなり、苦笑いした。そして、片ずけをしながら、支配人の来るのを待った。ところが、五分以上待っても来ない。ちょっとイラッとしながら、もう一度、事務室まで連絡をくれるよう館内放送をした。それでも、連絡は無い。待ちきれなくなり携帯に連絡をしてみると、支配人が出た。
「支配人おはようございます。鈴木です!今どちらですか?」
「申し訳ありません。朝出掛けに、急用が入ってしまい、今自宅に居りまして、これから出社します!」
なんとも暢気な返答だった。それにしても、もしそうであれば、先に連絡があってもいいはず。
「分かりました!」
典子は、この人は当てにならないと思い、にべも無く電話を切った。
支配人の斉藤健二・五十一歳は、五年前まで仙台市内のホテルの副支配人だった。その彼を、社長が気に入りヘッドハンティングしてきたのだ。ホテル仕込みの身のこなしは、見ようによっては素晴らしいが、どこか冷たさがあった。確かに仕事は卒なくなんでも出来てしまう。だが、人間味や親しみやすさに欠けていた。なにより、専務の正美より年上の支配人であり、業界経験といい実務でも、正美を上回っていた。そんなことから、典子は当初から気になっていた。それ以上に、二人の関係を危惧していた。
気が付いてみれば、もう十二時を過ぎている。そこでもう一度、常務に連絡をしてみた。ゴルフとはいっても、お昼ぐらいはあるだろうと思い、携帯電話をかけてみた。
「はい、ハイ、竹岡です!」
電話口の状況がハッキリ分かるほど騒がしい。そこで、用件だけと思い、短く伝えた。
「私だけど!」
弟に言い聞かせるように云った。
「食中毒みたいなの!」
「な~にっ、よく聞こえない」
その瞬間、カチンときた典子は、姉さんモードで、語気強く“たしなめる”様に言った。
「あなた何やってるのよ!ゴルフは良いけど、ちゃんと聞きなさい!さっき、保健所から、昨日の披露宴のお客さんで食中毒の疑いがあるという連絡があったのよ。社長は海外に行ってるし、正美はなんだか知らないけど東京出張、支配人は遅刻で、全くどうなってるの。あたし一人で、どうしたら良いか分からないでしょう!」
早口で一気に事の次第を話した。
「分かった!それでどういう状況なの?」
「今詳しく調べているところで、改めて連絡が来るようになっているの。ねぇ、どうしたら良いの?」
「専務には連絡したか?」
「連絡したわよ!でも出ないのよ・・・」
「そうか・・大丈夫だ!三時には終わるから、そしたら俺が直接、保健所に行ってみるから」
武志にとっても、初めての出来事で戸惑いはあったが、これまでの同業他社の事例や、様々な情報と知識で事態を掌握しようとした。その後のゴルフは、スコアーにならなかった。さすがにメンタルなスポーツだ。突然どうしたのかという同伴者の驚きをよそに、さっとシャワーで汗を流し、急ぎ急ぎハピネスに戻った。
四時過ぎ、事務室には典子と支配人の斉藤に加え、休暇をとっていた調理長の萩原が呼び出されて待機していた。俄かに事の重大さを感じ始めていた三人の表情は硬かった。そして、場所を会議室に移し、早速、四人で検討に入った。
四人の手元には、支配人が準備した資料が積まれていた。その内容は、週末の土曜・日曜に施行された披露宴十二件分の出席者名簿と、料理メニューの詳細であった。四人は、無言でその用意されていた資料に目を通すだけで、口を開こうとしなかった。音もなく静まり返る会議室にあって、一人ひとりの思いの中は、騒がしく大きく揺れ動いていた。
常務の武志にとっては、人数と症状が最も気になるところだった。謝罪・治療費に慰謝料、そして、その後の営業への影響。それら想定される経営へのダメージを頭の中で試算していた。
また、起こるべくして起きたと考えていた典子は、今後どうなるかよりも、ハピネスの現状を心から憂いていた。
支配人の斉藤にいたっては、直接的な責任者は自分ではない。仮に支配人という立場であっても、自分のうかがい知る所ではなかった。などと、責任回避と言い訳を考えていた。
さらに、職人気質の調理長・萩原は、この時既に、責任をとって!という無責任な退職を決意していた。
こうして四人四様の思いが渦巻きながら、時間だけが過ぎ、会議室にも明かりが欲しくなっていた。外は夕焼けが映える時刻である。典子が、そっと立ち上がり、照明を点けようとした時、
「こうしていてもしょうがない!俺、ちょっと保健所に行ってくる」
常務の武志は、支配人が用意した資料を鷲つかみに、会議室を出て行ったのは、午後五時を少し回った頃だった。そして、緊急会議は終了した。
結局、調理長の萩原は、最後まで一言も発しないまま、力なく厨房へ戻っていった。また、斉藤支配人は、萩原が置いていってしまった資料を集め、事務室へ。一人残った典子は、もう一つ気掛かりな事を思い出していた。
もう二年程前になるが、会社を定年退職していた主人の陽一から聞かされた、正美の噂話だった。陽一によれば、東北でも指折りの歓楽街・国分町にある、クラブの女性に入れ込んでいるというものだった。それを聞いた典子は翌日、数ヶ月遡って領収書を調べてみた。すると、確かに、同じ店の領収書が目立つ。ただ、それは青年会議所の延長だろうと考えて、あまり気にするほどではないと思っていた。しかし、言われてみればと、一つ一つ日付けまで確認して見ると、あまりに頻繁であった。今までは、特別驚くような金額ではなかったので、見逃していたのかもしれない。
そこからは、女性の極めて鋭い推理が始まった。問題は、飲み代よりも、飲んだ後だと。典子は立場上、専務の役員報酬を知っていた。四十になるかならないかで、年収二千万を超えている。これには、さすがに社長に忠告したこともあったが、改まることはなかった。
つまり典子の推理はこうだ。
『結婚を期に会社に入った。甥である正美の頑張りは、叔母としての“ひいき目”を割り引いたとしても、感心するばかりであった。それほど、一生懸命にやってきた。そしてやがて、青年会議所を大義名分に、仲間と遊び歩いているうち、薄暗いネオンの魅力に惹かれていった。それは、十年以上、一緒に居る女房からは消えかけている色と、人間の奥底に潜む欲望を刺激される、魅惑の世界。生活上の時間に制約はあったが、自由に使える経済的な余裕だけはある。それが、週に二日と通いつめた証拠ではないか?と。』
それからは、決して色眼鏡で見たつもりはなかったが、服装にも変化が現れてきた。つまり派手になってきたのだ。その他にも、身に着けるものの趣味が変わったようにも思えた。そして、ちょうどこの頃に、それまで興味がないと思っていた車も、高級外車に買い換えていた。典子にはよく分からないので、何気なく正美本人に聞いたことがあった。
「わざわざ、何で左ハンドルにしたの? ところで、こういう外国の車って高いんでしょう?」
「今までは、何でも良かったんだけど、ちょっとね!」
勿論、聞いてもわからないが、上手にごまかされてしまった。後で、常務に、そのことを聞いてみると、
「なぁ~、急にどうしたんだろうな?1千万以上するんだよ、あの車!」
顔をしかめながら小さく舌打ちした。それを聞いた典子は驚いた。そして、
「正美、変わっちゃったのかねぇ・・・」
と残念がるように言った。
灯りのない会議室で、たった一人典子は、食中毒事件以上に、正美の家庭、否、その彼が今後リーダーとして率いて行く、ハピネスの将来が心配でならなかった。
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