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運命の星(五)

運命の星(五)

今から三年前の二〇〇六年、正美・三十九才の夏。今年でJCを卒業するということで、数人の同期メンバーと共に、後輩たちの計らいで送別会をしてもらった時のこと。

はじめは、二十人を越える人数で宴会が始まり、二次会でも大いに盛り上がった。更に、三次会へと国分町を漫ろ歩いていた。この頃になると、後輩たちは、一人また一人と、知らないうちに居なくなり、十人前後になっていた。そして、深夜も十二時を過ぎて、「〆のラーメンでも食べようか?」となって、中華料理屋へ。その後は、「じゃーなぁ、これからもよろしく!」といって、この日は解散となった。

正美も、一旦はタクシーを拾おうとしたが、どうしても直ぐに帰ろうという気になれなかった。友人や仲間と居る時だけは、煩わしいことも何も忘れられたが、一人になると拭い去れない現実が、覆いかぶさるように襲ってくる。そんなストレスから、最近では体重も減り、酒に酔っていても顔色が優れないのがわかるほどだ。

 

会社の要職である専務に就いて、もう何年になるか? 正美は入社以来、それは周りも認め、感心するほど一生懸命に仕事に打ち込んできた。しかし、ここ何年も、バブル崩壊以後の日本経済は、長く超低空飛行を続けていた。それに加えて、社内の人間関係は最悪で、息をするのも疲れるような雰囲気を、どうすることも出来ないでいた。こうした内部の状態は、実に分かりやすい形で外に現れた。それは、業務上の単純な人的ミスが重なり、多くのクレームとなった。正美は、責任者として、ほぼ毎週のように、その処理に追われていた。

それでも、経営的に見れば、決して余裕はないが、まだまだ余力を残しているといった状態だった。だから、経営上の危機感ではなく、思うようにならない業務上の不満や苛立ちで、正美の精神状態は不安定になっていた。

残念なことに、こんな時こそはと言って、相談できる人間もいなかった。そっと優しく励ましてくれる友人はいたが、それは一時の慰めにしかならなかった。また、仲間と呼べるJCのメンバーも、時には力強く有難かったが、心許せる人間はいなかった。そして、最大の理解者であるはずの妻・礼子の前では、どうしても素直になれない自分だった。

いつの頃からか、正美の家族というか家庭観は、「安心」「支え」「守る」を信条として持つようになっていた。それゆえに、どんなに悩み苦しんでも、仕事を決して家庭には持ち込まなかった。こうして正美は、暗く寂しい孤独の海を漂流していたのだ。

 

夜の国分町は、それを忘れさせるほど明るかった。その中で、怪しく光り輝くネオンは、心に憂いを持った者にとって、現実逃避への滑走路に点滅する誘導灯のように見えた。正美は、その灯りに導かれるように、裏通りにあった小さなクラブへ入っていったのは、深夜一時になろうとしていた頃だった。

入って直ぐのカウンターには、六十近いサラリーマン風の男性が一人、酔いつぶれていた。お客はその一人だけ。正美が店の様子を伺うように、入り口で立っていると、この時間の新規のお客様に驚いたホステスが、

「いらっしゃいませ!」

片手でロングドレスの裾を持ちながら、正美を入り口まで迎えにきた。そして、閉店間近の、誰も居ないボックス席に案内された。カウンターの中では、この店のママと思われる着物姿の女性が、カウンターテーブルの上に、うつ伏せているお客を、優しく諭すように何か話しかけていた。そして、正美が席に付くと、

「ずいぶん遅いご出勤ですこと!」

お決まりの挨拶をしながら、そっとおしぼりを渡され、小ぶりで丸いテーブルの上を準備し始めた。正美は、後輩から貰った記念品の入った袋を足元に置き、上着を脱いで、ソファーにゆっくりと座った。おしぼりで顔を拭きながら、聞こえてきたのは、誰の趣味か?クラブにはミスマッチなジャズだった。テナー・サックスの音色が心地よい。ウェイン・ショーターか?

「今日は、何になさいますか?」

ホステスは、正美の上着を大事そうに、両腕で優しく抱きしめながら聞いた。

「ブランデーにしてくれる」

酒は、もう何でも良かった。ただ、反射的に思いついたのがブランデーだった。少し経って、テーブルの上には、見るからに高そうなボトルが置かれ、ボトルキープ・ホルダーとマジック・ペンが、そっと手渡された。瞬間、迷った。できれば人知れず飲みたいと思っていたのに、ここで素性が分かってしまってはまずい。正美は、マジック・ペンをいじりながら思いついた。そして、そのホルダーには“Happy”とだけ書いた。これなら大丈夫と、一人頷いた。

こうして、準備が整うのを、どこかで見ていたかのようなタイミングで、お店の一番奥から、一人のホステスが正美のテーブルに向かって歩いてきた。正美はタバコに火をつけながら、自分に付いてくれる女の子だなと、上目使いに見た。すると、どこにでも居るOLにしか見えない。果たしてこの子が、この店のホステスだろうかと疑った。さらに、この日、初対面であるはずなのに、どこか見に覚えを探していた。誰かに似ている。誰だろう?と思い出せないでいるうちに、正美の隣にそっと腰を下ろして、

「こんばんは。いらっしゃいませ!」

そよ風のように爽やかな囁きに、ドキッとしながらタバコを消し、彼女を見れば、お店にあるレンタルドレスではなく、まるで閉店後に着替えた私服のようだ。それでも、センス良くオシャレに着こなしている。

「もう、ずいぶん飲まれているようですね?」

正美を覗き込むように話すその話方も、この世界独特の香りが全くない。

「今日は、何かの帰りですか?」

本当に自然な感じで、疲れない。

「ちょっと、飲み会の帰り・・・」

正美はこの時点で既に、ホステスとしてではなく、一人の女性として意識しはじめていた。そうして気が付くと、正美の前には、ブランデーの水割りが、手編みのコースターの上に置かれてあった。そのグラスを口に運びながら、

「君っ、名前は?」

無意識で本名を聞いていた。

「クラブ・エンジェルの綾香といいます。」

そう言いながら、バックから名刺を取り出し、正美に渡した。その名刺を見て、営業名、つまり、源氏名であることを知り、少しガッカリした。そして、まだ思い出せない苦しさから、つい・・・

「ア ヤ カ・・さん? 君、誰かに似ているって言われない?」

「色々言われますけど、自分では分かりません」

ちょっとテレながら答えた。そして、

「誰に似てますか?」と、はにかんだ笑顔で、今度は反対に聞かれてしまった。この逆襲に、

「んっ~」と、困りながら咄嗟に、

「上戸 彩っ」そういって、自分でも恥ずかしくなってしまった。それを聞いた綾香も、思わず手で顔を覆いながら、すこし恥らって見せた。正美は、その仕草が愛らしく、見とれるように思い切り彼女を直視していた。

お店に入って、まだ僅かな時間しか経っていないが、正美は、今まで感じたことがないような安らぎを覚えていた。まさに癒されるという実感があった。以来、正美は、この店に通い続けることになっていった。

 

正美の仕事に対する責任感が、日毎・月々・年々に強くなっているのを、社長も常務も、日常の言動から感じ取っていた。そのことを内心では頼もしく、心強く思い、世代交代と引退を考え始めていた二人の、正美に対する期待は益々大きくなっていた。ただし、正美の内面では、その生真面目さゆえに出来てしまった、ストレスの山が今にも崩れそうに、不気味に軋む音を立てはじめていた。

まだ三十代の彼にして、全ての責任を背負うには、あまりに荷が大きすぎる。それでも、必死にその任を受けて立とうとしていた。が、生身の人間そんなに強くはない。時に崩れそうになることは、彼自身が身を以って味わっていた。その健気な正美を癒してくれるのが、まさにエンジェル・綾香の存在になっていた。そして、その存在は、正美の頑張りに連動して大きく、やがて欠かせないものになってゆく。

当初は、月に二・三度だったが、半年を過ぎる頃には、週に二・三度になっていた。さらにこの頃、正美の中で何かが、音を立てて変わり始めていた。

特別身なりを気にすることがなかった彼の腕には、百万円以上はするロレックスの腕時計・デイトナが着けられていた。また、スーツは見た目には目立たないものを選んでいたが、五十万はするであろうブランド品。そして、身に着けるものの殆どが、ブランド物で飾るようになっていた。終には、営業車として乗っていたトヨタ・ヴィッツを、ある日突然、BMW 6シリーズのカブリオレに乗り換えたのだ。

いち早く、その変化に気付いたのは、勿論、妻の礼子だった。ここのところ夫婦の会話も少なくなっていた二人だったが、あまりの異変に、礼子から、しつこく問い質されることもあった。が、

『ただなんとなく!』『俺だって・・』『今までは・・』

などと、この話題になる度に正美は、上手くかわしていた。そんな正美を、礼子は熊本女の懐の大きさで受け止めた。結婚以来、なりふり構わず、仕事に打ち込んできたことは、誰よりも良く知っていた。それが、何が切っ掛けかは知らないが、遅咲きの『男』が目覚めたぐらいにしか思っていなかった。否、そう受け止めていたのだ。ただ、なんとも言いえぬ気がかりだけは、女の勘として、片隅に残しながら・・・。

 

あの日から一年。何度となく、それもさりげなく綾香を口説こうと試みたが、やんわりと断られ続けてきた。それでも良かった。それが良かった。口説き文句は会話の延長線上のもので、それが全てでもなければ、目的とはしていなかった。反対に、そのことが正美を、さらに引き付けて離さなくしていた。それがここに来て、正美の熱意なのか、はたまた一途な思いかは分からないが、何かが綾香を動かし、一緒に外で食事をするまでになっていた。そして、つい最近まで一切プライベートなことを話さなかった綾香が、正美に、その身の上を話してくれるようになった。

 

源氏名・綾香。本名・長沢幸恵 二十八歳。宮城県大崎市は鳴子温泉に程近い山村に長女として生まれた。兄弟は三歳下の妹と、十二歳離れた弟の三人兄弟。父親は地元の農協に勤めていたが、五年前に病気で亡くしていた。今現在は、実家に母の康子と弟の弘樹が地元の高校に通っていると言う。妹・早苗は、東京の大学に通い二年生のときに父が他界。と同時に、大学を諦め、そのまま東京で就職しているという。

幸恵は、仙台市内の大学を卒業後、同じ市内にある大手メーカーでOLをしていた。が、これも突然の、父の急逝で家庭経済は一変し、母親を助けたい一心で、昼はOLを続けながら、週に三日の約束で、今のお店に勤めているということだった。また、高校二年生になる弟を、どうしても大学に通わせてあげたい。それまでは、今の生活を続けるとも言う。

一年を過ぎてようやく話してくれた身の上。それまでは、「個人的なことなので・・・」といって、決して話してくれなかった。それはきっと、事実ではあっても、他人に同情を買うようなことは避けたかったのだろう。そんな心優しい幸恵に、今までとは違う“情”のようなものが、溢れ出てくるのを、正美は抑えられなかった。

正美は、今日まで彼女は自分を癒してくれる存在としてきた。上手くいけば、深い関係になれたらという、“欲”で接してきた。そんな自分がつくづく、恥ずかしく思えてならなかった。

自分ひとりだけが、辛い境遇、苦しい環境、悩ましい現実に置かれている、可愛そうな人間だと思い続けてきた。しかし、人はそれぞれ、傍目には分からない、不遇を感じながら、それでも強く生き抜いているのだなっ!と、胸中を突き動かされたような気がした。

その後の正美と幸恵は、男女関係ギリギリの一線になりながらも、その距離を保ちながら、楽しく、安らぎの時を、そして限られた時間を過ごしていた。それは皮肉にも、正美の不安定だった精神を、極めて安定した状態として維持する、良薬のようになっていた。

それ以来、悩ましい現実は変わらなかったが、今まで以上に前向きで積極的に、仕事と向き合うようになっていった。

 

それから更に一年以上が経った十一月の末。

正美と幸恵は、仙台郊外の小さなレストランに居た。こうして、お店以外で会うのは、月に一・二度、幸恵がお店のない日を選んで決めていた。時間も、幸恵の仕事終わりを見越して、いつも大体、夜七時以降であった。正美が車で迎えに行き、ドライブを楽しみながら食事をする。というのが、二人のデートパターンであった。

車で移動していたため、お酒は入らない。だから、当然ではあるが、いつも素面の二人の会話は、実に他愛もないものであった。今日は、その幸恵のリクエストで、正美も始めてのイタリアン・レストランに来ていた。

だが、いつもと様子が違う幸恵に、

「幸恵、どうかした?」

正美は、気になったので、注文を済ませて直ぐに聞いた。

「実は・・・」

と言ったきり、うつむいてしまった。「やっぱりっ」と思い、少し間を作るように、正美はタバコに火をつけた。そして、

「何かあったのなら、どんなことでも良いから話してよ!」

正美は、椅子をテーブルに近寄れるだけ、近付けながら、お願いするように言った。そこへ、食前に頼んだブレンド・コーヒーが運ばれてきた。が、飲むのではなく、そっと脇にどかしながら、

「仕事で問題でもあったのかい?」

火を付けただけで、ほとんど吸っていないタバコを消し、そわそわと落ち着かない正美は、いつもより多く砂糖を入れ、カップから溢れるほどミルクを入れて、こぼれそうな勢いでかき回していた。幸恵は、まだ顔を上げようとしない。そして、ハンドバックの中から、一枚のコピー用紙のようなものを取り出していた。

「正美さん。私、東京へ行くことにしました!」

幸恵は、その経緯を丁寧に話し始めた。

 

『末の弟が、高校の推薦で東京の大学に行くことになったという。それは本当に喜ばし事である。幸恵自身が強く望んでいたことでもあったからだ。ただ、私立であること。そして四年間の経済事情から、悩んだ末に幸恵と妹、そして、弟の三人での同居を選んだのだと。妹は、今住んでいるアパートを引き払い、三人が暮らせるマンションを既に探し当てていた。それも、妹が手続きを済ませ、年明けの一月には引っ越すというものだった。勿論、今の会社もお店も辞めて。』

幸恵は、大学の決定を知らされてから、一ヶ月以上悩んだ。母親を一人寂しく実家に残すことが、何より切ないことだった。そして、今では、不思議な関係の正美に対しても、何故だか、何なのか、どう言い表してよいか分からない感情が、幸恵を一層苦しめていた。

幸恵の中での正美は、はじめは飛び込みのお客さん。それが、日を追うごとに頻繁に来てくれる常連さんになり、決まって指名してくださる有難いお客さんであった。正美も、必要以上に詳しくは話さなかったが、家庭があり、子供も三人いて、会社では責任の大きな役職に就いていることなど、正直に話していた。だから、そのことを、幸恵は正美以上に大事にし、気を配りながら接してきた。ただ、そんな幸恵の優しさだけの思いに、変化が生じていたのも確かだった。それは、正美と出会ってから一年が過ぎた頃だった。

この時、幸恵には、会社でもお店でも、頼りがいがあって、大きく強く受け止めてくれるような異性の存在がいなかった。云ってみれば、父親を亡くした悲しさから、その父に代わる男性を、きっとどこかで求めていたのだろう。そこに現れたのが正美だった。

そして、今になってしまえば、父親でもなく、恋人とも違う。良き相談相手かと思えば、どうしても気になる存在で、恋愛の情を感じてしまうこともある。

そんな正美との二年余りを振り返り、もうじき離れ離れになってしまう寂しさで、幸恵の目は真っ赤に腫れ、零れ落ちそうな涙で潤んでいた。

 

それを聞いた正美は、自分の体をどうしてよいか分からないほど動揺した。この二人のなんとも近寄りづらい雰囲気の中、料理が運ばれてきた。だが、二人は全く食べる素振りすら見せなかった。そして、その料理に向かって話すように言った。

「ありがとう。よく、よく・・話してくれた・・・」

それ以上、それ以外の言葉が見つからなかった。正美の声は途切れ途切れだった。さらに、動揺は隠し切れず、弱々しく、

「引越し先は教えてもらえる?」

すると、さっきハンドバックから取り出していた、コピー用紙を正美に差し出した。それは、新しい住所と簡単な地図が書かれたファックスだった。住所は・・東京都新宿区四谷OOのOO 四谷スカイマンション五〇二と記されてあった。

「これ、控えさせてもらって良い?」

精一杯に気を取り直した勢いで聞いた。

「いえ、それ差し上げます」

幸恵は、正美の様子を見て安心して、涙をぬぐいながら、努めて明るく答えた。こうしてこの日は、何を食べたのかも思い出せないほど衝撃的な一日となった。

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