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運命の星(六)

運命の星(六)

正美は、新宿のホテルに着いていた。

チェックインを済ませ部屋に入り、鞄と大きな紙袋に、もう一つ小ぶりな袋をデスクの上に置き、スーツの上着をクローゼットに掛けた。そして、ネクタイを緩めベッドの上に、大の字に倒れるように横たわっていた。しばらく何もない天井を見つめて、今日一日を回想していると、思いついたように正美は、枕元に置かれていたテレビのリモコンのスイッチを入れた。

特別、何かあるわけではなかったが、急に気になってNHKのニュースを選んだ。それは、ちょうど夜七時のニュースが始まったばかり。この時にはまだ、留守中のハピネスで大きな事件が起こっていることを知らない。そのなんだか分からず、急に気になったことが、“虫の知らせ”だったとは考えもしないことだった。

 

この時期にマスコミを賑わしていたのは、前年の二〇〇八年(平成二十年)九月に米国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが破綻。これにより、世界的な金融危機へと発展した。その世界的事件が未だにトップニュースだった。実際に、日本の金融機関のほとんどが多大なる影響を蒙り、政治も介入し事態収拾を図っていた。それでも尚、節操のない銀行の醜い姿を、マスコミが必要に追求していた。その銀行の煽りを食うように、正美の会社の資金繰りにも少なからず影響があった。一昨年まではまだ余力があったが、今年の夏はどう乗り切ったらよいか?と、これも正美を追い詰めていた一つだった。

 

正美は、三十分ほどニュースのヘッドラインだけをチェックした後、テレビのボリュームを落とし、携帯電話を手に取っていた。礼子に出張予定を言い忘れていたことを思い出したのだ。そして、携帯のアドレスを開くと、並んでメールのアドレスが目に止まった。正美は、礼子に対しての“後ろめたさ”を思いながら、直接の電話を嫌って、メールをすることにした。

「私です!今日と明日は東京出張です!よろしく! 正美」

と打ち終わってしばらく、礼子の顔と子供たちを思い浮かべてしまい、心苦しさから送信できないでいた。そして、目をゆっくりと閉じながら、送信キーを押した。

正美は、これで一人だ!自由な時間だ!と思いたかったが、なかなか切り替わってくれない。心は正直だ。二日間はリフレッシュするんだ!と思いながらも、会社のことは頭から離れない。それでも、二日位だから大丈夫!と自分に言い聞かせるように、会社には、あえて電話を入れなかった。それどころか、携帯の電源を切ってしまったのだ。

ふ~っと、一息大きく吸うと、体の中で雷でも落ちたかのような音が鳴った。

「腹減った!」

朝から何も食っていなかった。家での朝食には間に合わず、コーヒーだけ。昼は、せっかく安西社長がご馳走してくれると言うのに、気分はそれどころではなく、ランチにもありつけなかった。それにしても、なんとも慌ただしい一日だった。

早速、ネクタイをはずし、スーツの上着を持ちホテルの部屋を飛び出した。もうここは、かの有名な新宿・歌舞伎町だ。何でも揃っている。有りすぎて困るほどだ。とにかく、腹の中に食料を放り込みたい気分だった。そして、一分も歩かないうちに、町中が看板とネオンだらけの中にあって、正美の目に飛び込んできたのは、ビルの二階の窓全てが、赤・白・緑のイタリアンカラーになっているレストランだった。それは、正美が幸恵と、仙台で最後に食事をしたイタリアンレストランを思い出させた。そして、迷わず入った。

正美は、幸恵と一緒に食べたメニューを思い出そうとしていた。だが、あの時のことは、正直、あまり・・と言うか殆ど記憶に残っていない。それでも、微かに思い出したメニューを探してオーダーした。しばらくして料理がテーブルに運ばれてきたが、食は進まないかった。でも腹は減っていた。もしかして、減りすぎて意識と体のバランスを崩してしまったのか?などと考えているうちに、食後のコーヒーが置かれた。唯一、大好物の一つであるコーヒーだけは、じっくりと味わって飲めた。

こうして歌舞伎町で一人寂しく夕食を済ませ、店を出た正美は、腕時計を見て、時間を確認した。午後九時半を少し回ったところだった。「よしっ」と、小さく頷き、めったに来ることがない、この町を散策することにした。大学時代に、何度か遊びに来たことはあったが、細胞分裂のように変貌し続ける歌舞伎町だ。ちょっとした冒険気分でキョロキョロしながら歩いていると、

「社長さん、社長さん、お仕事帰りですか? 良い子いますよ!」

五メートルおきに声をかけられた。ある時期、厳しく規制された客引きだが、なんのその、ここでは逞しい生命力のようなものを感じてしまう。生き抜く力とでも言おうか?あまりに強引なお兄ちゃんには、思わず、「社長じゃねえよっ!俺は専務だ!」と、冗談と本気のハーフ&ハーフで撃退してやった。

小一時間、ブラついていて正美は思った。

『新宿・歌舞伎町・・この町は何も変わっていない。そして、一瞬も止まることなく動き続け変わり続けている町だ。そう、今も昔も“変わらない人間の欲望”と、その欲望の姿と形は、“めまぐるしく変化し続けている”のだ。』と。

そんなことを結論として抱きながら、改めて腕時計を見た。十一時十五分前。正美はちょっとあわてた様子で、急ぎ足でホテルに戻って行った。その途中、酒屋を探して、冷えたシャンパン一本とグラスを手に入れ、それを大事に抱えながら、ホテルの部屋に着いた。

この日、正美はツインの部屋を予約していた。だが決して広い造りとはいえない室内。おもむろに、その部屋の模様替えをするかのように備え付けの家具を動かし始めた。それでも、どうにも気に入らない様子で室内を眺めながら、また、時間を確認していた。そして、テーブルの上には、ホテル近くのスイーツのお店で買ってきた、4号サイズの小さなデコレーションケーキを置き、たった今持ち帰った、シャンパンとグラスを二個準備し、さらに、もう一つの大きな紙袋からは、素敵にラッピングされた包みを取り出し、ベッドの上に置いた。正美は、部屋の入り口のドア付近まで行き、この室内を観察するように眺めていた。

 

実は、東京でのセミナーに誘われたことを、これ幸いと、この一月、東京に引っ越した幸恵に連絡を入れていた。

幸恵は、妹の早苗の手助けもあって、小さな会社の事務の仕事を見つけていた。また、仙台でもそうであったが、週に三日は、夜の仕事もしていた。それは、幸恵の兄弟を思い、母を案ずる思いからだった。結局、幸恵はこれまでと変わらないリズムで生活をしていた。

その夜の店は六本木にあった。月曜の今日は、比較的早く終われる日だということで、都内のどこかで待ち合わせしようとしたが、時間も時間なので、正美のホテルで会うことになっていた。なにより偶然にも、あと三十分もすれば、日付が変わって三月二十九日・幸恵の三十歳の誕生日であった。

もう何度目になるか、正美はまた腕時計に目をやった。十一時には仕事を上がれると言っていた。ホテルとルーム・ナンバーは、チェックインと同時に幸恵の携帯にメールをしていた。が、本当に来てくれるか?不安になった。そして、あらためて、ささやかなバースデーパーティーのセッティングをした部屋を確認した正美は、せっかく冷えたシャンパンが・・と思い、冷蔵庫に入れておこうとしたその時、ドアをノックする音がした。正美は慌てて急いで出ようとしたが、そこはちょっと大人ぶって、意識して少し遅れてドアを開けた。そこには、四ヶ月前と全く変わらない幸恵が、微笑みながら立っていた。

「いらっしゃい!久しぶりだね。どうぞ!」

来てくれたという安堵の笑顔で、幸恵を部屋の中へ通した。すると、少し戸惑うように、

「正美さん、どうしたの?」

全く意外な表情で振り向いた、その愛らしく透き通った瞳も、あの日のままだった。正美は、ここでもう一度、そっと腕時計を見て、

「お誕生日おめでとう!」

そう言いながら、ベッドの上に置いていたプレゼントを手渡した。幸恵は本当に驚いた様子で、そのプレゼントを持ったまま、固まったようにして立っている。

「本当におめでとう! どうぞ・・」

正美は、イスに座るよう促して、小さい方の袋の中から、ロウソクを三本取り出し、ケーキに刺した。

「ちょうど三本だったよね?」

幸恵の、まだ驚いている横顔を見ながら確認した。

「うん!・・」

そして、ライターで、ロウソク一本一本に思いを込めるように火を点けている正美に、

「ありがとう。 正美さん・・ありがとう・・・」

幸恵は、プレゼントの箱が、潰れそうなくらい強く抱きしめながら、その思いに応えるように言った。正美はそっと部屋の灯りを消し、

「幸恵っ、お誕生日・お・め・で・と・う! ほら、吹き消して!」

幸恵は、プレゼントの箱を脇に置き、両手で髪を押さえ、ケーキに顔を近付けて、三本のロウソクを一本ずつ消していった。すると、二人の部屋は、一瞬真っ暗になったかと思ったが、カーテンの隙間から差し込む、眠らない新宿の街の明かりが、薄明かりにした。その灯りを頼りに、お互いを探して、じっと見つめ合っていた。そして、

「会いたかった! 今日、会えて・・本当に嬉しいよ」

  ・・・・・

「おめでとう 」

二人が出会ってから三年余り。十日と空けず、二日と空けずに会っていた二人が、四ヶ月もの間・・・。この長い時間が、二人をより近付けていた。この時二人は、『男』と『女』を、ハッキリと、そして強く意識した。それはお互いが全てを許せる男女(ひと)として、認め合った瞬間だった。

薄明かりの中で二人は・・・

正美は、幸恵の頬に、優しくキスをした。幸恵は、正美に引き寄せられるように、その腕に抱かれ、今ようやく、二人は自分に正直になっていた。

幸恵が、きつく抱きつけば、正美は、より強く抱き寄せた。正美が、強く唇を当てれば、幸恵は、その唇を優しく噛んだ。そんな二人を、ケーキの甘い香りが包んでいた。そして、静かな室内に二人の息使いが、ゆっくりとしたリズムで木霊していた。

 

人と人との出会いは、男女に限らず不可思議に思えてならない。良くも悪くも、出会いは人間を大きく変える。人生をも左右してしまうことすらある。ただし、その出会いは、計算できないといっても良い。更に突き詰めてみれば、一人ひとりの心、一人の人間の思い、内情といったようなものが、まるで磁石のようになって、出会いを自ら引き寄せるのではないか?

正美にしても、家庭に大きな不満はない。子供たちの成長を嬉しくも楽しみにしていた。何より、妻の礼子に対する思いは、出会った頃の恋愛感情こそ薄れてはいたが、それも長い結婚生活、夫婦生活である。特別な問題ではなかったし、お互い理解しあっていた。

幸恵もまた、気だての良さは、間違いなくご両親譲りであろう。しかも、兄弟思いで、母親を心から愛しながらも、決して自分を見失わず、公私の分別を持った、賢さも兼ね備えていた。

だが、そう単純ではない。

“人間の人間たる難しさ”があるのも事実であろう。 

それだけではない何か・・・がある。

否、時々に変わり続ける内面が厳然と存在する。

それは、頭で理解していることと、時々の感情の不一致とでも言おうか?

よく、「人間は“考える”動物である」などといわれる。

一方で、「人間は“思い”の中に生きている」とも。

正に、この解し難く、処し難いのが、人間ではないか。

 

二人の出会いを顧みても、生真面目でなりふり構わず一生懸命、仕事に打ち込んできた正美だったが、それゆえ鬱積したストレスと強い責任感が、彼をどこまでも苦しめてしまった。

それはあたかもマグネットのように、健気で前向きな状態を「プラス極」とし、責任感とストレスで悩み苦しんでいる状態が「マイナス極」。それを幸恵に代えてみても、家庭経済を支え、母親を助けたい一心の優しさと、父親を亡くした寂しさが、対極となって、それぞれが引き付けあい、出会いを生んだのではないかと。

つまり、プラスもマイナスも、健気さも苦しみも、優しさも寂しさも、それら全てを同時に具え、その時々に様々な出会いが、繰り返されていると言ってよい。

正美を癒してくれる幸恵。

幸恵の心の穴を埋めてくれる正美。

二人はこうして出会い、この日はじめて結ばれた。

 

新宿の素敵な夜は明けて、朝になっていた。幸恵は、正美の寝姿を見て、疲れていることを察していた。だから、そっと起こさないように、ベッドから滑り落ちるように抜け出し、几帳面に畳んで置いた洋服を着て、さっと簡単に化粧を済ませた。

正美はまだ、小さく鼾をかいている。幸恵は、ホテルの便箋に、

『正美さんへ  本当にありがとう 今日は仕事があるので失礼します またお会いできる日を楽しみにしています 連絡待ってます 幸恵』

そう書いて、テーブルの上に置き、部屋を出て行った。

 

外は陽も高くなり、ホテルのカーテンをすり抜けるように、日の光が差し込んでいた。その明かりで正美が目を覚ましたのは、午前十時になろうとする頃だった。そこには、もう幸恵はいなかった。その幸恵との一夜を思い返しながらも、チェックアウトの時間が気になった。急いで服を着ていると、テーブルの上の便箋を見つけた。それを読んだ正美は、また無性に幸恵が恋しくなった。そんな思いを仕舞い込むように、それを上着の内ポケットに入れて、部屋を出た。

チェックアウト・精算を済ませながら、この後の予定を悩んでいた。それなりに考えていた予定では、『日中は子供たちへのお土産や自分の買い物をしながら、映画でも観て、その後はサウナにでも入ってマッサージをしてもらいながら、ゆっくり過ごして夜を持つ。そして、幸恵の勤める六本木のお店に行こうと考えていた。何よりも、できれば、もう一日というか一晩を、幸恵と過ごせたらと考えていたのだ』それが、正美の翌日の予定までは聞いていなかった幸恵には急用が入り、お店も、この日は休みを取っているという。そんな自分勝手な計画が、見事に崩れてしまった。

正美は、ホテルを出てコーヒーが飲める場所を探していた。今日も朝はコーヒーだけかと侘しくなりながら、既に活気付いている町を歩いていると、小さな専門店を見つけ喜んだ。入って直ぐのテーブルに積まれていた朝刊を取り、席について大好きなモカ・マタリを頼んだ。ここでも正美には嬉しいジャズがBGMで流れていた。

サイホンでそのまま運ばれてきたモカは、ほろ苦く酸味が強いのが特徴だ。その香りと味を愉しみ、新聞に目を通していて思った。『今日は、帰ろう!』・・ならば、まず会社に連絡だと、携帯電話を取り出した。すると電源が切れている。『んっ?電池切れか?と思った』が、夕べホテルに着いて直ぐ、自分で切ったことを思い出した。

正美は、この時も、どことなく何となく気になって、電源を急いで入れた。そして、携帯に表示されたのは、2,009・3・29 10:30 Tueであった。今日は平日だし何もないだろうと思いながら、喫茶店の外に出てから発信ボタンを押した。

 

「もしもし、正美?」

会社の固定電話の液晶画面で発信者を確認していた典子が、その携帯から飛び出してきそうな勢いで・・・さらに、返事をする間もなく、

「あなた今どこにいるの?何やってるの?直ぐ帰ってこれる?」

全く機関銃のようだ。呆気にとられるように、

「どうしたの? 少し落ち着いて話してくれる」

何かあったことだけは、充分察しはついたが、それにしても普段は専務・専務と呼んでいる筈の典子叔母さんが呼び捨てだ! 不安が過ぎった。

「何があったんですか?」

「食中毒よ!食中毒・・・大変なことになってしまったわ・・・」

「・・・・・」

正美は少し考えて、

「大丈夫ですよ!こんな仕事をしていれば、食中毒ぐらいあっても不思議じゃないですから」

耳元では、微かに典子叔母さんがすすり泣くような声が聞こえていた。

「大丈夫ですって!今東京ですけど、直ぐに戻ります!」

「・・・・・・」

返事はなかった。

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