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運命の星(九)

運命の星(九)

 

正美はこの日、深夜まで様々な検討をしてから帰宅した。

ニュースを見て驚いた礼子は、正美が、まだ東京に居るものだと思って、携帯に連絡していたが、仙台に戻って居るということで安心した。そして、正美の体を心配しながら、簡単な夜食を用意して待っていた。

「お帰りっ!食事は?」

「ビールもらえるか?」

今日は、分かりやすく落ち込んだ表情を隠さなかった。もう十二時を過ぎている。礼子は、あえて気になるだろうと思いテレビを消し、正美の好きなジャズを、そっと流す気の使いようだ。そして、無造作に脱ぎ捨てた正美の上着を持ちながら、

「大変だったね。でも、起こってしまったものはしょうがないよ!」

礼子は、優しく、そして静かに話しかけた。

「ところで、症状の重いお客様は、その後ど~お?」

それは、礼子の一番の気がかりであった。

「今日、保険会社と打ち合わせしてきたから大丈夫だ!」

正美は、ビールを自分で注ぎ足しながら、無表情で言った。その何気ない事務的な一言に、

「そういう事じゃなくて、私が聞いているのは・・・お客さんは大丈夫なの?」

正美の返事はなかった。否、答えられなかった。彼自身、礼子と同じニュースの情報しか知らなかったのである。

「スタッフの皆さんも大変だったんじゃないの? 近くの人だけじゃなかったんでしょう?」

これも、礼子の気になるところだった。この礼子が言う、「今日は大変だったね!」は、中毒を発症した多くのお客様の対応を思ってのものだった。

正美は、ビールを一気に飲み干し、

「それどころじゃないんだ!俺は・・・・・・・・」

そう言って、急に立ち上がった正美は、両手で強く頭を抱えて、

『・・・俺は・・・いったい何やってるんだ! 何をやってたんだ?』

今度は、ソファーに座りテーブルに額をつけて、うつ伏してしまった。正美は礼子の言っている意味をようやく理解した。同時に、とんでもないことに気が付いてしまった。どこの、誰が、どんな症状で苦しみ、入院先は・・・。今の今まで、いったい何をやっていたんだと。

深夜一時になろうとしていた。日付けが変わった今日、社長の武夫も帰ってくる。何とかそれまでには、対策と対応を決めておきたかった正美だったが、大きく的を外していたことに、今気が付いた。

礼子は正美の落胆する様子を見て、それ以上に驚き、その“まさか”を瞬時に察した。そして、

「お客様と会社、どっちが・・・」

と言いそうになったが、とっさに口を噤んだ。上着を持ったままの礼子は、ダイニングテーブルの椅子に掛けて、そのまま座り込んでしまった。この二人を癒すように、真夜中のリビングには静かにジャズが流れていた。

こうして、この日は朝まで眠れずにいた正美に付き合い、礼子もリビングで一夜を過ごした。

 

もう一人、寝つきの悪かった安西は、朝早くから対策チームを結成しようと、一人事務所に詰めていた。そこへ、副社長の良彦も出勤してきた。そして早速、仕入先を含むチーム編成に取り掛かった。

「社長!ところで、何でそこまで私たちがしなければならないんでしょうか?食中毒といっても、それはハピネスのお客さんですよね!?」

良彦は、正直、理解に苦しんでいた。かえって、自ら積極的に、その原因というか非を認めるような行為に、賛同しかねていたのだ。

「ハピネスのお客さんは、私たちのお客さんでもあるからです!」

すると、すかさず・・

「確かに建前はそうです! それはそうですが、当社の取引先はハピネスだけじゃないんですよ。」

今後の取引への影響を考えていた良彦は、飾らない本音で言っていた。

「だからこそ、事実関係と原因を明らかにして、その多くの取引先に迷惑が掛からないようにしたいのです!」

それでもまだ、合点のいかない良彦は、

「そうは言っても、そこまで・・」

安西は、これ以上の説明や議論は意味がないと思い、話の腰を折るように、

「ハピネスのお客様も取引先も、同じお客様。とにかく“お客様第一”それだけです!」

そうキッパリ言い放つと、良彦は、それ以上何も言わなかった。

そうこうしているうちに、出勤時間の八時半になると、三十名ほどのスタッフがミーティング・ルームに集められた。そこへ、仕入先の担当者も加わり、狭い室内で立ったままの会議。安西は、何度も何度も『お客様第一』を繰り返し訴え、すぐさま全員で、納入先への説明・対応に当たった。

 

同じ頃、一睡もできず着替えだけ済ませて、正美は武志の自宅にいた。

「専務はまだ若い! こういう時はなっ、・・・ 結局、補償が一番の問題になるんだよ! お客様って言ったって、最後は必ずそうなる。」

不眠の目は真っ赤で、薄っすらクマを作っていた正美は、その目をこすりながら、

「私はそのことを否定しているのではないんです! ただ、食中毒で苦しんでいる、お客様への対応というか、予約を頂いているお客様も含めて、何も出来ていないということを言っているのです!」

昨夜、礼子から言われた一言で気が付いたことを、武志に話した。何よりも先ず、否、一刻も早くお客様のところへ出向いていくべきであるとも訴えた。

「分かった! でもなっ、行ったところで、『どうしてくれるんだ!』って言われたらどうする? 『今後はどうなるんだ!』と言われても、答えられないじゃないか? 要するに、保障の問題も行政処分も何もハッキリしていない状況では、動きようがないじゃないか? だから、今は少し時間が欲しいだけなんだよ!」

武志は、彼なりの冷静な大人の判断であることを、正美に言って聞かせた。それでも、納得がいかず、なぜか知らず怒りのようなものを抑えながら、

「もう結構です!  責任者の一人としてっ・・・」

そう言って席を立った。

「ちょっと待ちなさい! 専務! 待ちなさい! 正美!」

それは朝八時半。武志の自宅を逃げるようにして、始業時間前のハピネスへと車を走らせた。車中で正美は、何度も自問自答を繰り返していた。常務の言っていることは間違っているとは思わない。しかし、それが正しいとはとても思えなかった。間違いではないけど正しくない・・・

 

正美は、誰も居ない事務室で、具体的な対応を考えていた。そして、無意識の癖のように、タバコに火をつけ、赤いボールペンで、土・日のお客様の住所や電話番号をチェックしていた。

そこへ、営業部長の荒木が、駐車場に専務の車があるのを知って、警戒し覗き込むように、そ~っと入ってきた。

「おはようございます」

荒木は、常務の指示を無視して、昨夜は遅くまでお客様のところへ出向いていた。そのこともあって、専務から視線をそらしながら、自分のデスクに座ろうとした。

「おはよう!早いね? 部長、ちょっと良いかな」

そう言って、正美は応接室に来るように催促した。この時、荒木は覚悟していた。否、昨日の時点で覚悟は決まっていたと言ってよい。

会社に逆らうつもりはなかったが、結果的には指示に従わなかった。それとは反対に、自分の行動が間違っているとも思わなかった。だから、自分に素直に、正直に動いた。

正美は、応接室の窓を勢いよく開け放った。さっと入り込んでくる風は気持ち良く、それは自分の心を入れ替えるように。

「昨日は、バタバタしていて・・・申し訳なかったなっ! 恥ずかしいけれど、まったく突然のことで、何も見えなくなっていたようだ! 本当に恥ずかしいよ。部長っ、教えてくれるか?今、現場はどうなっているか?」

それまで寂しげに、うつむいていた荒木は意外な表情をして顔を上げた。だが、会社への不信感を強くしていた荒木には、その言葉をすんなりとは聞けなかった。だから、言葉が出てこない・・・

「もう遅いかもしれないけれど、営業部を中心に、苦しんでいるお客様の対策を検討したいんだが・・・? 週末のお客様と、その他ご予約を頂いているお客様に対しても・・・ 情報がもっと欲しい。 よろしく頼みたい!」

じっと正美の目を見て聞いていた荒木は、専務の真意を図りかねてはいたが、覚悟のままに言った。

「症状を訴えている患者さんは、私が担当した披露宴のお客様です。大変申し訳ないことですが、それはお客様からの電話で分かりました。」

「そうだったのか・・・」

「ですが、常務の指示で、しばらく動くなと言うことでした。ただ、どうしても、私には納得できなくて、その指示には従えませんでした! すみませんでした!」

と、自分の思いを視線に乗せて、正美の目を見つめながら言った。

「いやっ・・ありがとう!」

正美は、その真剣な眼差しに応えるように、ゆっくり頭を下げた。そして、テーブルに置いていた資料を捲りながら、

「お客さんは・・・重、重症の患者さんも・・・」

 

この時、出勤時間にはまだ早い、九時を少し回ったばかり。申し合わせたように、営業部の四人は事務室に居た。従業員用の駐車スペースに、専務と部長の車がある。四人は自然と耳を澄まして、その二人の気配を探っていた。そして、音を立てないように見つめあい、一斉に向いた先は応接室だった。

荒木を上司としてだけではなく、師匠と慕う営業部主任の清水康介と、ひょうきん者でムードメーカーの赤坂 悟。その赤坂のよきライバルで同期の井上宏典。そして、一番若いがセンスの良い佐藤信行の四人は、アイ・コンタクトでその応接室に入っていった。

「おはようございます!」「おはようございます」

主任の清水が切れのある挨拶をすると、赤坂・井上・佐藤もそれに続いた。

「どうした?皆、早いじゃないか!」

驚いた荒木は、立ち上がっていた。

 

四人は、荒木が昨夜、ハピネスを出て行った後、それぞれ担当のお客様のところへ訪問していた。今週末以降のお客様には、移動中の車から携帯電話でお詫びの挨拶をしながら、週末のお客様宅を一軒一軒、直接伺った。

彼らは皆、常務の指示、会社命令に背いて、荒木部長の後ろ姿に従い、荒木の心を我が心として行動していたのだ。もちろん、その結果は荒木と同様に覚悟の上だった。

「お客様は皆、心配しています! 対応が遅いとお叱りも頂きました。その中でも、反対に心配してくれる、お客様もいらっしゃいました。」

清水主任の目から、一筋の涙が流星のように頬を伝って落ちた。

「清水! みんな・・・」

荒木は言葉が見つからなかった。赤坂、井上、佐藤の三人も、力のこもった視線を正美に向けていた。そして、少しの沈黙・・・

正美は心から詫びた。だが、それは言葉にならなかった。額を床に摩り付けて土下座をしたいとも思った。が、それも出来なかった。次第に胸が苦しくなり、ゆっくり立ち上がって、深々と頭を垂れた。

心は不思議だ!必ず通じている。否、伝わるものなのだ。正美の真意を図りかねていた荒木の顔が明るく輝いた。ほんの僅かな、希望の光だと信じたからだった。

 

この後、営業部を中心に対策会議が行われ、急ぎ中毒患者の氏名や入院先などのリストをつくった。そこにバンケットその他スタッフ約二十名も加わり、総出で手分けし、市内はもとより、五都県という広範囲にわたる病院や自宅を訪問した。

まさしく、これこそ“後手”ではあったが、唯一、正美とスタッフの大きな胸のつかえだけは取れた。なにより、ここに来て始めて事態を直視し、真正面からの対応に動き出したのだった。

 

また、その日の夕方四時。スタッフのほとんどが出払っていたハピネスに、背広姿の男性二人が、鋭い眼差しと、低いドスの効いた声で責任者に会いたいといって訪ねてきた。それは、宮城県警の捜査官だった。

その時、正美は常務の武志と応接室に居た。そこでは、叔父で常務の武志が専務の正美を強くたしなめていた。それは、常務が出勤してきた時には既に、対策会議が行われ、そして、その制止を振り切り、正美の指示で強引に動かしてしまったのだ。

そこに、フロントの遠藤沙緒里が、警察が来ていることを告げに来た。ここでも正美は、「俺が出る!」という武志の腕を掴んで、

「いえっ、私が対応します!」

腹を括っていた正美の力は強く、武志は動けなかった。と同時に、その気迫に押されて引き下がった。

正美は、半ば開き直りにも似た勢いで、一通りの事情聴取を終え、翌日の現場捜査の約束をして、この日は帰ってもらった。

さらに、直ぐその後に、今度は保健所の立ち入り調査が入った。これにも、正美が積極的に立会った。

 

ここに改めて、事件は二度起きていた。

それは先ず、起こそうとして起きたのではない食中毒事件と、認識の甘さと自己保身による情報操作。言うなれば、組織における人心の乱れをベースにした不慮の事故と、エゴイズムが根本となって道理から外れてしまったとも言える。

ただし、この事件で失ったものはあまりに大きく、これもまた、二つあった。その後、業務停止を受け週末に予定されていた十軒の予約は、他の式場やホテルにお願いして施行してもらうことになった。また、既に予約を頂いていた百軒以上の中からは、懸命にフォローした営業部の努力も空しく、半分近くのキャンセルが相次いだ。つまり、それらによる経済的損失と、さらに大きく、売上や利益といった数字では表せない“信用”までも失う事態になったのである。

まさに、「哲学なき経営」の危うさか?はたまた、利己的価値観が生み出した現実の姿か?その報いか?

 

いずれにしても、この事件以降、ハピネスの経営は、漂流の果てに座礁してしまった船のような状態となってしまう。まったく身動きがとれない。料理長の萩原以下調理場八名は、全員「責任を取っての退社」という無責任さで去っていった。また、支配人の斉藤は、こういう時も実に賢く、「この船は危ない!」とばかりに、翌月には退社していた。そして、お客様との最前線で苦労し、切ない思いをしたブライダル・プランナーも、チーフの藤田洋子を残して、皆、辞めて行った。それは、バンケットやその他も同じだった。唯一、営業部の荒木部長、清水主任、そして、赤坂・井上・佐藤の五人は、その後の専務の振る舞い・言動に一分の望みを感じると共に、それでも尚、応援してくれているお客様に感謝しながら残ることにした。

思えば、確たる羅針盤も無いままに、焼肉の大将丸は船出し、次第に船体を大きくしながら、果てしない大海原を四十年以上に亘って航海してきた。しかし、一見順調そうに見えた旅路も、その真実は、エゴで舵を取り続けた“漂流”だったのだ。まさに、明確な目的地のない船の、成れの果てが座礁であった。そして今、多くの乗組員は、期待と希望を捨て去り、自ら下船してしまったとも言える。

 

この事態を我が事のように悩んでいたのが安西だった。大恩人でもある竹岡社長の落胆ぶりが、安西を苦しめていた。

武夫は、自分の留守中に起きた事を大いに悔やみ、尚且つ、その後の経営と組織の衰退に直面し、かつてのような前進の力は、もう残っていなかった。

あの事件から半年、ハピネスと、それを取り巻く環境は一変していた。経営上の経費削減として、社長は役員報酬を放棄し、女将さんは健康上の問題もあり、これを期に退職し自宅で療養していた。常務の武志は、正美との一件以来、折り合いが悪くなり、非常勤の役員として名前だけ残して、事実上引退状態。さらに、精神的ショックが大きかった、ハピネスの金庫番の典子も、休養を申し出て、それ以来復帰することはなかった。そこに、地域のホテルや式場は、この期に乗じてか?は知らないが、一段と営業攻勢をかけていた。それでも、これまで蓄えてきた資産や預貯金、さらに私財の全てを処分して、なんとか乗り切ろうとしていた。

 

対照的に安西は、スピーディーで誠実な対応を、多くの取引先に評価され、さらに、その経営姿勢が新たな顧客を増やす結果となっていた。だから、ハピネスに助けられ、ハピネスのお陰でここまで来たことを考えればこそ、いたたまれない思いでいっぱいだった。

「だからこそ何とかしたい!」

歯噛みをするような、苛立ちを禁じ得なかった。この時、このような局面にあって安西は、アンビシャスから学んだ約二年が一日のように、彼の中を全速力で駆け巡っていた。

『自分が良くなるのは結果。他人・お客様のために何が出来るかが原因』

それは今回、大きな確信として我が身に刻まれた。結局、“相手のためが自分のため”になっていた。いたって単純だ!明快だ!この実践こそ哲学か?

『人間感情優先。相手感情優先』

この“感情優先”も、矢神からのアドバイスにあった、『お客様第一』のことではないか? お客と言う人間、取引先と言う名の相手。つまりは、明確なプライオリティーを言っているのだろう。

『利に勝ると書いて、勝利と読む!』

尽く、いざとなると売上だ、業績だと自らの利に負けてしまうものだ。そして悩み、苦しみ、一切の判断を誤ってしまう。

安西は、『正直怖い!』と思った。アンビシャスのメッセージは、いつでも、極めてシンプルだ。だが、その内実は、これまた極めて広大無辺に思えてならなかった。アンビシャスの言う経営哲学は、理屈や理論ではないのだ。日常の自然な行為一つ一つ、その普遍的な本質を言い当てているのかもしれない。

安西の胸中は、漲る勇気と決意で溢れていた。そして、その決意は竹岡武夫という大恩人への、本物の報恩と感謝の思いに変わって行った。

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