運命の星(十二)

一日過ぎるごとに、暑い夏の日を忘れ、装いは衣替えを済ませていた。最も過ごしやすい季節でもある。今日もまた、子供たちを学校に送り出し、正美を見送った後、礼子は急いで美容室へ向かった。今日十月二日(日曜日)、礼子は大学時代の同級生の結婚式に出席する予定があった。それも、今年三月に、正美が東京で出席したセミナー会場と同じホテル。勿論、そのことを、礼子は知らない。
今日のヒロイン孝子(タカちゃん)は四十二歳。いわゆる晩婚である。大学時代にボランティアサークルで一緒だった彼女は、卒業後、外資系金融会社に就職していた。それから約二十年、典型的なキャリアウーマンとして働き、今では部長職にまで成っていた。十六年前には、礼子の結婚式にも出席していたが、その時も一切、結婚の話はなかった。というよりも、彼女の前で結婚話はタブーだった。そんな彼女も、同じ会社に勤務する十歳年下の彼をゲットしたということで、招待状が届くや否や、友達の間で大いに盛り上がった。
さすがに外資系企業のキャリアウーマン。結婚式といいながら、その企画演出は、友人や同僚が中心のウエディングパーティー。時間も夕方からということで、遠くから出席する礼子や他の友人のホテルも手配してくれていた。
午後四時半、礼子は友人たちと待ち合わせて、ホテルのレストランで談笑していた。その友人は皆、既に結婚していて家庭を持っていた。礼子も、例に漏れず一主婦として、毎朝の家事をこなしてから、電車を乗り継いで仙台から駆けつけた。疲れていないといえば嘘になる。だが、この一時だけは、旦那や子供のことも忘れ、楽しかった学生時代に戻れる瞬間でもあった。話題は尽きない。結婚への憧れと現実、子供の教育や躾、そして、旦那への不満。時間を忘れて話し込んでいた。
午後五時半、パーティーが始まり、おめでたく和やかで楽しい雰囲気の中、礼子だけは、その空気に乗り切れないでいた。次々とテーブルに運ばれてくる料理にも手をつけようとしない。それを気にして、隣の席に座っていた明子が、
「どうしたの礼子・・食欲ないの?正美さんとは上手くやっているの?」
明子もまた、正美と礼子の結婚式に出席していた。その竹岡家が経営するハピネスの食中毒事件もテレビのニュースを見て知っていたが、それには触れなかった。礼子は、一瞬ドキッとした顔を隠すように笑みを作って、
「もう子供も三人よ!上手くやるも何も、子供たちで手一杯よ!」
「そうよねっ!私は子供一人だけど、それでも大変だもの!三人じゃねっ・・」
「ところで、明子の方はどうなの?・・・」
女性に限らず、人は話すことで気持ちが楽になることがある。何でも話せる人がいることだけで、勇気をもてたりもする。反対に、一人ほど寂しく不安なことはない。だから一人で悩んではいけない。悩みは迷いに通じている。そして、迷いは、自分自身をどこまでも苦しめる淵源ともなる。それでも尚、人は他人には決して話せない何かを、抱きしめながら生きている場合がある。それが今の礼子だった。誰にも打ち明けられずに一人悩んでいた。
それは、あの食中毒事件が起きた翌日から・・・
一日中対応に追われ、正美が疲れて帰ってきた夜遅く。労いのつもりで、礼子が正美に話しかけた一言で口論となり、寝ずに朝を迎えた。あまりに憔悴していた正美はシャワーも浴びずに、着替えだけして出勤していった。礼子は、不用意な発言を後悔しながら、正美の脱ぎ捨てたスーツをクリーニングに出そうとして、ポケットの中をチェックすると、ビジネス手帳が忘れて入っていた。取り出してみると、その手帳は分厚く膨れ上がっていた。礼子は、何か大事なことが書き記されていては正美が困ると思い、手帳をテーブルに置き電話を掛けようとした。すると、資料が挟まって膨れ上がったその手帳が、テーブルの上で半開きになってしまった。
礼子は決して覗き見ようとした訳ではなかったが、四つ折の便箋が分厚い手帳から一枚滑り出ていた。見ればそれは、ホテルの便箋であることが分かった。礼子は女の勘で気にはなったが、そのまま手帳に戻して、正美に電話をした。そして、礼子が手帳のことを伝えると、『帰ってからでいい』という返事だった。
電話を切った後、手に持っていた手帳をテーブルに置くと、また、同じ便箋がはみ出して見えた。礼子は、誰もいないリビングを見回してから、その便箋をそっと抜き取った。そして、その手紙を読んで、“勘が当たった”と思いつつも“後悔”した。さらにもう一枚、手帳を厚くしていたコピー用紙を手にとって見ると、東京の地図と住所、電話番号が女性の字で書かれてあった。そこには、見覚えのある字で、一月・幸恵・新居と書いてある。
この時礼子は、二日前の東京出張を思い出し、そして、ここ一・二年の正美の変化を思い返しつつも、子供たちの顔が目に浮かんでしょうがなかった。それを振り払おう、忘れようと何度も首を振りながら、手紙を手帳に戻した後は、“肥後の猛婦”本領発揮で、正美を責めるのではなく、自分自身を省みて、健気な子供たちを最優先した。
その後、何日か経っても記憶から消え去らない住所と部屋番号を、自分の手帳に書き留めておいた。そこには、『幸恵さん』と書いて・・・
パーティーは、二時間ほどでお開きになった。が当然、二次会もセットされていた。場所を移して、近くは赤坂の小洒落たバーを借り切って、それは企画されていて、礼子も懐かしい友人と共に出席していた。
ここでも、思いは偽れず、雰囲気に乗れ切れない礼子だった。幸せに輝いているタカちゃんを気にしながら、正美との結納の時に貰った腕時計を見ると、午後八時半になっていた。礼子は、パーティーからずっと一緒だった明子に、
「明子ごめんっ!今日ちょっと、用事が有って・・・」
「それは残念ね!じゃぁ、正美さんによろしくね!タカちゃんには、私から後で言っておくねっ・・・また連絡するわ!」
『タカちゃんごめんね』と心で詫びながら、礼子は急いでホテルに戻って、パーティードレスを着替えた。そして、礼子はハンドバック一つだけ持って、ホテル玄関で待機していたタクシーに乗り込み、手帳を見ながら行き先を伝えた。夜九時を少し回っていた。
秋の夜は長い。何よりこの日の夜は暗く深く感じてならなかった。タクシーが向かったのは、ホテルから十五分ほどの新宿区四谷。お酒の酔いもあるが、それとは別に体がやけに熱い。礼子はタクシーの窓を少しだけ開けて、夜風で顔の火照りを冷まそうとした。そして、口臭を気にしてハンドバックからガムを取り出して噛んだ。
程なく、タクシーは目的地に着いていた。
「お客さん、着きましたよ!こちらでよろしいんですか?」
返事がない。
「お客さんっ、スカイマンションですよね! 着きましたけど」
礼子は、手帳を見てうつむいていた。
「お客さん?・・・」
「はい、・・お幾らですか?」
「一五二〇円です!」
手帳を閉じてハンドバックに入れ、財布を取り出して二〇〇〇円を渡した。
「レシート・・・」
言い終わらないうちに、自分でドアを開けて出て行こうとしていた。それを見て、ドライバーが急いでドアを開けながら、
「お客さん、レシートとお釣りです!」
礼子は、それを無視してお釣りも貰わずに出て行ってしまった。
地上九階建てのマンション。見ればずいぶん古い建物だった。今時は、セキュリティーがしっかりした造りになっているが、どうも、ここは出入り自由のようだ。礼子は、マンション・エレベータの前に立ち、もう一度手帳を取り出し、確認していた。住所と部屋番号、そして幸恵という名前しか知らない。レトロなエレベーターに乗り込んだ礼子は、五階のボタンを押した。そして、手帳に書かれている五〇二号室の表札を見て、もしこの住所が間違いでなければ、「長沢」、長沢幸恵さんであることが分かった。
礼子は、今まで噛んでいたガムを、包み紙に出してバッグに入れた。そして見るからに手垢で黄ばんだ呼び鈴を押した。少しして・・・
「はいっ!どなたですか?」
インターホンはなく、ドア越しに男の声がした。礼子はその声に一瞬と惑ってしまったが、
「竹岡と申します。幸恵さんはご在宅でしょうか?」
すると、ドアの鍵を開ける音がして、静かに少しだけ開いた。
「どんなご用件でしょうか?」
覗き込むようにして見えた男性は、まだ若く二十歳前に思えた。
「竹岡と言います。夜遅く突然に申し訳ありません。私は今日、仙台から参りました・・実は、幸恵さんに会って、是非お伺いしたいことがありまして・・・」
すると、慌てたように今度は女性の声で、
「竹岡さんっ!」
「弘樹、ちょっと・・私知っているの! 弘樹はいいから私がっ!」
出てきたのは、幸恵の妹・早苗だった。早苗は顔を確かめもせずに、靴を履いて玄関外まで出てきた。
「夜分遅く、本当に申し訳ありません」
今度は、その礼子の顔を見つめて離さないでいた。その早苗に礼子は改めて、ゆっくりとお辞儀をして、
「幸恵さんは、ご在・・・」
「姉は、もうここには居りません!」
「えっ、そうですか? 先ほど、竹岡を知っていると・・・?」
人目を気にするように、礼子の腕を軽く掴んで、どこかへ連れて行こうとした。
「弟が居ますので、下で・・・」
そう言って、マンションの裏手にある、小さな公園へ案内した。外灯一つの公園。その下で、
「姉さんは・・・・・・・・・・・・・・・」
外灯に照らされた早苗の表情は悲しげで、その目元は寂しげに、そして幸恵のことを話し始めた。
出身は同じ宮城県の大崎市。仙台市内でOLをしていたが、父親が他界した後、長女の幸恵は母を助けるために、昼の仕事のほかに、国分町で夜の仕事を始めた。そして、どうしても弟を、大学に通わせてやりたいということで、東京で兄弟三人の生活をすることになった。その東京でも幸恵は、昼と夜の仕事をしながら、一人残してきた母と弟の為に頑張っていたと。
実際、幸恵は昼間は小さな会社の事務をしながら、夜は六本木のクラブで週に三日働いていた。事務の仕事を終え、一度マンションに帰えり、弘樹と早苗の夕食を作って、夜八時から十二時までの四時間クラブに勤めた。このクラブでの幸恵は、実質のナンバーワンであった。というのも、多くのホステスは、お客に気に入られ、指名が続くと、出勤前に食事などをしてからお店に来る。いわゆる、同伴出勤がある。そうすることによって、ルール上、お手当がつくのだが、決して礼子はそれをしなかった。時には、“お堅い”とお客に言い寄られたり、ストーカー紛いなことに遭ったことも、幾度と無くあった。そのことで、兄弟に迷惑や危害が加えられるようなことがあってはと、警察に相談することもあったくらいだった。
早苗は、自分も一緒に夜の仕事に就こうとしたが、幸恵がそれを許さなかった。そんな幸恵を、弘樹も早苗も大好きだった。心から信頼して已まなかった。その幸恵も、東京に越してから半年経った頃、会社を休むことが度々有った。勿論、夜の仕事も。心配した二人は、疲れているからだと思い、病院へ行くよう説得し、夜の仕事をやめるように、本気で話し合ったこともあった。
実は、幸恵は病気ではなかった。彼女が行ったのは産婦人科。それは七月の七夕の日。懐かしい仙台の七夕祭りを思い出しながら、勇気を出して病院に行ったのだった。結果は・・・。
十月の夜は少し冷える。比較的軽装で来ていた礼子も、部屋着のまま出てきた早苗も、寒そうにしていた。それでも、早苗は続けて礼子に訴えるように言った。
「その幸恵姉さんが八月、突然、手紙を残して・・・」
そこまで堪えていた早苗だったが、崩れるようにひざまずいてしまった。実家が比較的裕福であった礼子は、その話を聞き、この健気な兄弟が不敏でならなかった。礼子は、まだ詳しい事情を知り得ず、なんて言ってよいか分からなかった。それでも、優しく早苗の肩に手をかけ、一緒にひざまずいていた。二人を照らす外灯も頼りなくチラついている。
「自分のほうこそ大変なのに、今まで必死に蓄えたお金を、全部私たちに置いて・・・」
そう絞り出すような声で、早苗はまた泣き崩れた・・。礼子は、その早苗の肩を抱きかかえるようにして、立ち上がりながら、
「ごめんなさい。今日は遅いから、また明日、時間を取って話してくれます?」
ハンドバッグからハンカチを取り出し、早苗に手渡した。
「いいえっ、話します! だから・・・これっきりにしてください!」
早苗は、ハンカチが絞れるほどの涙をぬぐいながら、その手紙の内容を諳んじているかのように話し始めた。
『早苗へ
突然、驚かせてごめんね
二人には、私の体のことで心配かけてしまったけれど、
先週病院に行ってきました
安心してください、病気ではありません
病院の先生には、おめでとうって言われました
ちょうど三ヶ月だって
実は、早苗にも内緒にしていたけれど
仙台のお店で、竹岡さんという方と出会いました
その方は、ご家庭のある方だけど、優しくて誠実な人です
立派にお仕事もなさっていて、素敵な方です
でも、決して竹岡さんを責めないでください
全部、姉さんのわがままです
竹岡さんには、もう会いません
私の身勝手で、ご家族を悲しませるようなことだけはしたくないから
私はこれから、お腹の子と二人で生きてゆきます
心配しないでください、落ち着いたら必ず連絡するから
弘樹をお願いね
お母さんには、しばらく内緒にしていてください
心配掛けたくないし、私から話します
お金は、弘樹の学費に使ってください
それと、お母さんには、毎月五万円ずつ送ってください
よろしくお願いします
本当に、自分勝手な姉さんを許してください
元気でね 幸恵 』
早苗は、礼子の手を両手で強く握り締めながら、最後まで手紙の内容を話した。礼子は、その手を胸元まで引き寄せて、
「ごめんなさいね!本当にごめんなさいねっ・・・」
薄暗い外灯の陰になって、礼子の表情はハッキリとは見えなかったが、その声は確かに震えて聞こえた。
この時、礼子は正美を責める気にはなれなかった。むしろ、この兄弟に対する切なさで、胸が締め付けられる思いだった。
「話してくれてありがとう! 悪かったね! 」
全てを打ち明けた早苗の方が、今度は落着きを取り戻し、
「竹岡さんは悪くありません! 姉さんがそう言っています! 話してしまった私の方こそ、姉さんに怒られてしまいます。でも・・ 」
今度は、礼子が早苗の手をキツク握り、その手を持って、近くのベンチへ誘って座った。そして、幸恵を案じながら、
「お姉さんの思いは分かりました。ところで、このことを竹岡は・・?」
泣き腫らした早苗の顔を見ながら言った。
「いえっ、初めて話します! あのぅ・・」
つい話してしまったことを、今さら後悔するように、ちょっと困った表情で言うと、
「大丈夫!分かってます。一つだけ聞かせてくれる? お姉さんのお歳は?」
「今年三月で、三十になりました。でも、姉さんも竹岡さんも、 」
すかさず礼子が、
「私も女よ!信じてっ!」
状況が分かった礼子は気を取り直して、笑顔で早苗を気づかった。
「でも、何かあったら、連絡くれます? 私に出来ることがあれば・・何でも言ってくださいねっ!私の携帯を教えておくね!」
そう言って、二人は公園を後にした。
ホテルに戻った礼子は、この日、知り得た情報を丁寧に、日記のように手帳に書きとめた。そして、幸恵の行方と体が心配で、なかなか寝付けなかった。
さらに、ベッドの中で礼子は考えていた。何故、こうなってしまったのか?一体誰が悪いのか?それとも、誰も悪くはないのか? いや、良い悪いではなく、皆が悲しんだり苦しんだりと、係わる全てが云ってみれば犠牲者のようなもの。と同時に、誰もが加害者のようにも思える。幸恵が言うように、誰か一人を責めれば良いとは思えなかった。
礼子は、知らぬ間に眠ってしまっていた。そして、無意識の夢の中で自分に言い聞かせた。「これは私自身の問題。何かしら意味があり私が問われているのだ」と。
これが礼子の心だった。正美を生涯のパートナーとして選び、正美を愛するが故の優しさと強さだった。
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